メモつづき

続きのメモ 頭によぎるあれこれ

洞山の「不堕五音(五音に堕せず)」とは強烈な言葉ですね。ドレミになどに堕ちてしまうものか!

陶淵明の「音律を解せず」も良いね〜、ドレミなんて知らないよ、ということ。

コントラバスでの「正しい」音程はとても苦労が多く、かつ、苦労の割には聞き映えはしないという現実の中で、痺れた手でチューナーを眺めつつバッハを練習している私(の矛盾)。

ニコラウス・アーノンクールの言葉には
「美しさとは、あらゆる音楽のもつひとつの構成要素である。・・・音楽を全体としてはもはや理解することができなくなって、いやもしかしたらもはや理解しようと望まなくなって、はじめて音楽をその美しさにまで引き下ろし、・・・・感動的なものからきれいなものへと追いやった。」

最近の歌のレパートリー「ふりかえるまなざし」(渡辺洋)では、
「いっぽ ふみだすことや はみだすことで
うつくしさは はじまる
ゆたかさや じょうほうに おぼれて
たゆたっている きれいさが
うつくしさに かわるのは そのとき
いまが そのとき
ねばりづよく」

岡本太郎さんもよく言っていましたね。「芸術はきれいではだめだ」

ジャック・アタリは「労働の雑音、人間の雑音、自然の雑音、買われ、売られ、あるいは禁じられる雑音。雑音の聞こえぬところに、何も起こりはしない。今や、社会を、その統計によってではなく、その雑音、その芸術、そしてその祭りによって見極めることを学ばなければならない。雑音を聞くことによって、人間の、そして数字の狂気がわれわれを何処へ導いて行くのか、さらに、今なお可能な希望とは如何なるものかが、よりよく了解され得るであろう。」

海童道さんは「音楽」を認めなかった。

荘子の音楽論「天籟・地籟・人籟」

庄﨑隆志さんによると言葉によるコミュニケーションは全体のコミュニケーションの7%に過ぎない。