庄﨑隆志さんと

庄﨑隆志さんと東駒子さん金沢映子さんとの舞台終了しました。

インクルーシブフェスですので、キャンサーキャリアとしては堂々の?出演です。

いつもどおり、隆志さんとは、「聞こえている」「聞こえていない」ということを考える一瞬もありません。強い信頼関係があるので、淡々と、激しく自分の仕事をするのみです。彼の反応でわかります。すべて通じています。

表現に表れるのは表面。それは変容したもの。それを剥ぎ取るのがdis-cover、発見。

所有しているのではないものでの関係・交流は決して枯れることなく続きます。

インクルーシブやハンディキャップについて勘違いが多いことを自分自身が弱者になって気がつきます。新たな視点をいくつも手に入れました。

それでも、まだどこかに自分は「フツー」という意識が残っていて困ることがあります。

たとえば竜太郎さんがダンスで困っていると、手を差し伸べよう・導こうとしたり、庄﨑さんが詩や歌が終わってもダンスを続けていると「終わりなんだけどな~」と心配したり。

しかし、これは勘違いかもしれないのです。竜太郎さんは困っているのではなく、間を取っている、あるいは、困っているダンスをしている。庄﨑さんは「この詩はそんなに早く終われない、もっと探ってみようよ」と私たちを(詩人も含めて)諭している。そういうことは充分に有り得るのです。

沢井一恵さんが、作曲家が書こうとした大元の動機に直接繋がって、書かれたもの以上の音(楽譜に書けなかったもの)を演奏してしまうのにも似ています。

ドイツで自閉症プロジェクト「私の城」をやっている時こんな感覚になりました。彼ら(の何人か)はすべてをわかっていて、しかし、反応がうまくできずに、時に正反対の反応をしてしまうので、フツーの人には「わからないんだ、遅れているんだ」と見えてしまう。

そしてそのことを疑うことなく、「やさしい」気持ちになり、導いて(あげよう)と思ってしまう。彼らもいちいち対応しない、対応できない、反応できないことに飽きてしまっているので、ただ、導かれる、手を差し伸べさせてくれている。

すぐそこにあるものが取れない、かんたんなトリルができない、手足は痺れっぱなし、浮腫みっぱなし、ケモブレインで言葉がでてこない、ふらふらしか歩けないことに私は慣れました。ファイナルワードですが、しかたないのです。ブルースです。

ままならぬ身体はままならぬ感情をよく理解します。そこに詩がうまれ、音楽が生まれるのではないか。