「いずるば」フェスティバル 備忘録その3

いずるばフェス備忘録(忘れないうちに) その3
第3場
銅鑼(韓国のチン)合奏で始まります。私はチンの音が好きでしようがなかった。ムソク(巫族・シャーマン)たちと縁ができて共演するようになり、ケンガリやホジョクなどの楽器はとてもできないけれど、チンはやりたかった。叩き方を現場で学び、決して音が割れないよう、そしてリズムを切る時はサステインさせぬよう様々な工夫があることを知ります。概して中国の銅鑼類は音が高くなりますが、韓国のチンは低く伸びていきます。その美学も好きでした。

アウフタクト(前拍)を効かせる時もキーになる1拍目の合図の音。私は人間文化財の作ったチンをいただいたり、大きめなもの、小さめなものを作っていただいたりして、チンの合奏を何度か試みました。楽器には最終形というものがあり、大きなものも小さなものも普通はありえないそうです。アスベスト館でアバカノビッチさんとのコラボレーションをワルシャワでやった時もたくさんのチンを使いました。

もともとスバラシイ音なのですが、人によって音が違うことに気がつきました。大野一雄さんと一緒に劇団「態変」(重度障害者の劇団)とワークショップをやった時、「態変」の一人がチンを気に入って叩いた音の美しかったこと!ザイ・クーニンもスバラシイ音を出しました。そして予想通り竜太郎さんもスバラシイ音でした。

すなわち、私のようにあらかじめ「良い音」を想定して、そういう音を出そうと囚われていると本当に良い音は出ないのです。無垢な気持ちで叩く、それ以上の奏法はない。音は嘘をつけるのか?嘘はつける、けれど、音でバレます。ダンスは?美術は?言葉は?嘘をつける?バレる?バレない?性善説・性悪説を越えて音は身体を通して語りかけます。歌舞伎や文楽の「阿古屋琴責め」は人気演目ですね〜。

そんな思いもあり、この第3場の導入はチン合奏にしました。竜太郎さんが踊りながらチンを控えめに鳴らし円を描くときの音の放射は素晴らしかった。座り込んで5拍子や3拍子を交えての高まり、落ち葉との合奏。いつのまにか、佐草夏美さんが後ろ姿で座ってお祈りをしています。背後には良寛の詩。無絃琴。沖縄のハジチやポリネシアの入れ墨のように、蒼い字が白い衣装や肌に現れました。

夜の静寂(しじま)の草の庵(いお)  弦(いと)なき琴を独りひく 調べは雲間に入りて絶え
声は川面(かわも)に深く和(わ)す 洋々(ようよう)水の音(ね)渓(たに)に盈(み)ち
颯々(さっさつ)風は木々(きぎ)を吹く 耳に届きしその音の 奥の調べを聞くは誰(たれ)

良寛、一休、沢庵さんは、昔話やアニメでよく知られていますが、その思想のスゴいこと。沢庵さんと柳生心影流、能の呼吸への言及など参考になることばかり。ヨーロッパ即興シーンに範を求めずともこの国にはいくらでもあります。

夏美さんは東京芸大の邦楽・箏曲専攻を卒業、しかし在学中からどうしてもインドネシアの踊りを踊ることしか考えられなくなり、その道に入りました。身体に関しては野口整体をずっと続けていらっしゃいます。

銅鑼の音で、身体を通した音、心のありかたによって変化する音、自己表現ではないところまで来て、「無絃琴」「没絃琴」という弦のない箏に辿りつきました。音は音を聴くのではない、という逆説。帰去来で著名な陶淵明もエアー琴の歌を詠んでいますし、無絃琴を弾いているイラストまであります。内田百閒にもエッセイがあり、夏目漱石の書斎には無絃琴の書が飾られていたとか。沢井一恵さんは色紙を頼まれると「無絃琴」と書いたり。

ここからは聾のダンサー庄﨑隆志さんとの共同作業・ノンバーバルコミュニケーションの領域に直結します。言葉によるコミュニケーションは全体の7%にしか過ぎない。振動は渦巻き管の中のリンパ液まで伝わっているのではないか。伝わるとは何?

夏美さんと竜太郎さんのデュオは、時に動きが止まりました。止まったところで幻視で始まる動き。音で言えば、音楽は演奏が終わった後に始まる何かのためにある、という逆説へ通じます。ノイズは、終わった後の静寂を深めるためにある。音楽は会話ではない。終わるために演奏する。死ぬために生きる。

音は、神器に入れた水が揺れる(神の意志)のを待つこと、嘘をついたら入れ墨を施すぞ、という白川静さんの説は衝撃でした。その白川さんがファンだったという乾千恵さんの「音」という字を投影しました。

夏美さん・竜太郎さんの静謐な動きに、エレキギターの歪んだ音(土井さん)サックスの風音(小川さん)が異化効果として入っていきます。どんな「やかましい」音が入っても少しも揺るがない静寂(しじま)。
やかましい音がかえって静寂を引き立てます。

ディストーション(歪み)の効いたエレキギターの音、チョーキングで揺らす音、そして意外にも笙の音は、発せられたコトバのじゃまになる!雅楽もエレキギターも「ことば」を排除するための音だったのでしょうか?

次の場:
ピアニシッシモで、楽器の持つ最高音を奏でる楽師(アコーディオン、バンドネオン、声、鍵盤ハーモニカ、笙、ソプラノサックス)が中央に集まり、また去って行きます。場を清める。最高音で消えるその先はどこ?

そこに寝転んだ竜太郎さん、泰子さんが木村裕さんの詩(雫の音)をアカペラで歌います。コロスはワークショップで作った一弦琴を微かに奏で「雫のひとつ」になります。聞こえない方が良い、と作った楽器です。「私は素数をかぞえて/時空を跳ぶ/赤ん坊みたいに/ほら、枯れ葉が舞い落ちてきた/さきほどの夢の樹から」と詠まれる詩は、枯れ葉をあしらった舞台、どこまでも飛翔する竜太郎さんを予想していたようでした。

ここまで来ると、ミュージシャンもダンサーも自己表現からずいぶんと遠くへ来ています。

第3場終了