終わるか、続くか。原因。

「私の城」のリハーサルを続けています。やる度に感じることがいくつかあります。

「終わる」か「続く」かということ。

私たちミュージシャンやダンサー、スタッフは、公演が終わると「終わり」ます。好評だったり不評だったりに関わらず、1つのイヴェントを成し遂げた充実感(いかなる場合も多くの時間とエネルギーが必要です。)をもって終了、次の仕事へ進みます。しかし、自閉症の人達は決して「終わり」ません。明日も明後日もおなじ日常が続きます。

生きていることは「終わらず」、今日も明日も明後日も続く、という視点でハンディキャップのことも捉えなければいけないのだと思います。

演技ということ、演奏ということ。演技も演奏もいわば「作り物」です。現実ではなく架空、嘘です。うまく行った演技・演奏はうまく行った架空・嘘なのでしょう。

架空・嘘がうまく行くとは、さまざまな因果を含んでいるからでしょう。現実は膨大な因果(+偶然)で動いています。偶然でさえ因果が認められます。嘘くさいとは、原因・動機の探求が足りないだけです。

作曲された譜面からとりあえず譜面通りを受け止め、こなし、譜面に書ききれなかったことにも想像を膨らませ、我が物として演奏する。

あたかも、その場で初めて「生まれた」ような演技・演奏を目指してリハーサルを続けるわけです。

それは、即興にしても同じと言えます。

現実は即興の積み重ねとも言えます。即興的に選択した行動をとります。その即興も多くの原因があるわけで、時代や個人、家族、社会、国家、の刻印をすでに押されています。この身体も限界ばかりです。

社会でも国会でも、1つの嘘は膨大な言い訳を必要とします。目も眩むほど膨大。嘘がないと言い訳は1つも要りません。

人生が即興なのに、なにも舞台で即興の上乗せをする必要は無い(土方巽)という言葉が迫ってきます。

ともあれ、今日は公演地ケルンでのリハーサル、明日本番です。