OTOOTO with泰一さん

improvised musicとfree jazzとの境目をどうとらえるのか、かつてよく考えたことです。

演奏の目的を「叫び」や「泣き」による情のカタルシスとは考えたくない、信じ切れないという気持ちは初めからありました。興奮することは、心や体を揺さぶることで、リアリティを感じることが容易です。決して否定はしませんが、それだけを目的にしたくはなかった。涙やヤケクソは避けたい。祭りは、発散で、非日常ですが、同時に「待つ」ことでもあって、内面を見つめる静かで厳しい行為でもあるのではないだろうか、と思っていました。

今の興味で言うと、ジャズのアドリブにおけるような極端な自己表現とインプロの匿名性を併せ持つことは可能なのだろうか?これも根を持つことと羽根を持つことを同時に行うことでしょう。

私がこの道に入った40年前の日本では、その境目はほとんどありませんでした。というか、improvised musicって何?という状態でした。

アメリカ文化一辺倒の戦後日本、テレビ・野球・プロレス・原発・ジャズ・ロックでしたが、パックスアメリカーナのジワジワとした衰退とともにそれらの影響も薄くなってきてフリージャズからではなく、ロック、美術、現代音楽、パフォーマンス、などなどからimprovised musicに進む人達もだんだん増えてきました。

一方、情をビブラートに乗せて歌う伝統も日本には途絶えなく脈々とあるような気もします。

そんな中で、かみむら泰一さんはジャズの視点からimprovisedへ大いなる興味をもちインプロ演奏をし、ジャズもショーロもキープしている希有なミュージシャンと言えるでしょう。コントラバスの生音の倍音を消さないようにサックスの奏法をさまざま工夫してくれています。それも有り難いことです。

ヨーロッパではドイツのベーシスト、セバスチャン・グラムスさんが両ジャンルで大活躍をしています。(11月に来日の話あります。)泰一さんは縄文文化やダンス(身体性)に一方ならぬ興味を持っています。メロディのうたいかた、うたに対する考え方も根本的に見直しているようです。竜太郎さん・庄﨑さんとの共演からも多くを得ているように見えます。

研ぎ澄ます、と同時に、併せ呑む。すべて統合されるべき彼独自のジェントルな道をこれからもノシノシと進めていくことでしょう。注目しましょう!

そんな泰一さんの着眼点と音楽欲・人間力が、具体化されて、目を見張るようなLIVEでした。こういうところでこういうことがこんなふうにおこなわれている。じんせいなかなかやめられない。