如月朔日セッション

 

私の生活に「詩」が足りない、とつねづね思っています。その「詩」とは、丁寧に生きること、祈ること、に近い。音楽をやっている人間が、音符を拾い上げて磨いてあるべきところに配置するのと同じように詩人は通常使っている言葉を拾い上げて磨いてあるべきところに配置するのでしょう。

街を見渡してみて、通常の「意味を伝えるための」言葉が、拾い上げるだけで「詩」の言葉になるのかもしれないと思います。駐車場の「空」、アパートの「居住者募集」、「席を譲りましょう」、「冬のセール」、「駐車禁止」、「在庫一掃」だってなんだって詩人にかかれば詩になります。

世の中全部がそう見えてしまう詩人は生きるのが大変でしょうね。絶対音感の人が大変なように。詩人は職業ではないのでしょうし、音楽家も職業でないのかもしれません。

ハーモニーのとれない色と色、言葉と言葉、音と音、動きと動きなどの選択や配置のアドバイスをする、こうすればもっと楽しく、美しく、ドキドキさせ、活き活きさせることができるよ、と例を見せるのが詩人・音楽家・画家・ダンサーの仕事なのかもしれません。

ビルを建てたり、山を崩したりするようにはお金がかかりません。だれでもいつでもその場でできます。それが即興。行きすぎたBGMに抗議し、姿勢を正し、微笑み、言い争いをやめ、洗濯物を干す色合いを工夫し・・・・

寒い寒い中、熱心な聴衆(何かを強く求めている)に恵まれて、ことばを意識するLIVEを行うことが出来ました。

そして梅本さん快復おめでとうございます!(ウメモトさんのお名前だって「梅」「本」「実」で詩になりますね。)みんな何かしらのお祝いをもって、また、その分の哀しみももっています。お祝いの分を集めて花束にします。

お花畑で良いのです。毎年かならずある時期に虫がやって来て、花が咲くのです。奇跡、いや、奇跡でも何でもなく何万年と続けてきた命の歴史です。天行健なり。間違えることなどないのです。そんなお花畑の了見もしらないで、偉そうにしてはイケマセン。

薦田愛さんが開場前に来ていただけたので、朗読の部分をご自身に読んでいただきました。本人の言葉はやっぱり何か違うよね、と客席から聞こえます。

三角みづ紀さんの言葉はどうやっても「痛く」突き刺さります。そしてとてもダンサブルなことがわかりました。詩は歌であり音楽であり踊りであるのです。つまり何でもあり。人の暮らしすべての中から抽出した歌と踊り。

極々短期間に、しかも直前にインフルエンザにも罹患し、面倒な譜面を我が物にして自在に歌ってくださった泰子さんにも感謝しかありません。オペリータ「うたをさがして」初演3日前!に依頼した代役を見事にこなして下さった守護天使がまた面目躍如。

私を始め、この場に居合わせた人は、きっと帰途から言葉を意識するようになり、にやにやしたり、ハッとしたりしていることでしょう。

実は、この所の副作用の影響で足下がふらふらで、手がすべりやすく、昨日も楽器をぶつけてしまいどこかに大きめなヒビが入り、ある音程でかなりのビリツキ音がでました。音程も定まりません。極太ガット弦ではよりキビシイ状況です。

少し焦りました。いや、かなり焦りました。だんだん傷が深まり演奏不可になる可能性も考えて、近所に楽器を貸してくれそうなミュージシャンはいないか、聞いたりしました。あまり適当な人はいません。

ならばとビチョビチョの雑巾を何枚も用意してもらい、あまり絞らずにやたらめったら楽器の表面を拭き、水分を吸収させました。ひびに染みこめせようという企みです。ともかく今日の最後まで持ちこたえてくれ〜〜〜との願いのみでした。

ノイズは最後までかなり出ていましたが、最後まで持ちこたえました。この140歳のフランス婦人は強い。ありがたい。

逆境にさらに自分を追い込んで「ああセリム」では人生初のベース弾き語りソロ(これが実に下手でした〜)。その直後の泰子さんの「コルフーラ・私の花」の無伴奏ソロがすばらしく、引き立て役にはなりましたか・・・。

楽器がそんな状態だったので、打楽器的奏法は完全封印、強いピッチカートも封印、Dの音の使用を極力避ける、という奏法を続けました。

さてさて、その結果、弱音の多用、丁寧な楽器扱いが功を奏したようで、ひびが入っていることはさほど気づかれず、かえって、今日は良い音でしたね、という評を複数いただきました。

大きなレッスンでした。このところの授業料は高いね〜。

それもこれもみんな含め、ありがとうございました!