「東京・あざみ野」終了

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皆藤千香子ダンス公演「東京・あざみ野」終了しました。2日間とも緊張感を伴い、即興性も加味され、いろいろな感情・意味・既視感が立ち現れました。30代の才能溢れる登り坂のダンサー・振付家達と仕事をするのは楽しく嬉しいものです。ほとんど彼らの親の世代ですけど、そんな意識は無く、同じつもりです。

元パン工場の舞台は暖房の設備がなく寒いですが、廃墟のようでもあり、荒涼感もあり今回の振付には良くあっています。あらかじめ希望や大志が暗黙の内に拒否されているような若い世代には、いつかは希望が現れるようなドラマティックな展開は違和感があるのでしょう。そんな世の中を残してしまった。

自らの意思で踊ろうとするとどうしても「いびつ」な踊りになってしまい、資本から四六時中与えられ続けているビートに「踊らされる」と同じ踊りをカタチだけ合わせて妙にキレイに踊ってしまう。その狭間にある可能性を音で繋げることができるか、と演奏しました。爪で肉と血が引っかかれ自分と他人との境目が無くなる(神よ祈りなさい、Paul Celanのテネブレを想起)、世の中はここまで来てしまっている、祈りとノイズの間にメロディ・うたは可能なのか、千香子さんのご所望の「浸水の森・夜」と「invitation」のリディアン旋法で試してみました。

セバスチャン・グラムスから借り受けたベースは12弦ギターの部分を共鳴弦として使っている「Space Bass」と命名された特殊な楽器でした。シタールや、多弦ギターのように弦の共鳴が残響として響きます。(ペーター・コバルトさんの年季の入ったソフトケースにくるまれていました。)この方法で究めたのはアメリカのマーク・ドイッチェさんです。ハワイのコントラバスフェスで会いました。共鳴弦はたくさん付けているために楽器自体が25㎏~30㎏近くあったような記憶があります。

振付と即興の関係、作曲と即興の関係を再考したり、舞台上にいるダンサー・ミュージシャンの「生もの」としてのリアリティ、それを越えることができる「作品」とは何なのか?即興がその場の集中力を集めてしまう、それに耐えるテキストはどういう強さが必要なのか?いつものように課題は尽きません。あたりまえです。「続ける」ことでしょうか。

ともあれ、無事に終了しました。関係者のみなさま、ありがとうございました!千香子さんご苦労様でした!ヤッシャ、ヨウギさん、ゆうたさん、照明さん、セバスチャン、ジャン、ありがとうございました!

デュッセルドルフからブッパタル中央駅に戻り、本日初日を迎えた「パン劇場」(今年来日公演を一緒にやったヴォルフガング・ズーフナーさんたち3名の音楽喜劇、ジャンが演出)の打ち上げ、「気の道」をパリから教えに来たマーティンさんの打ち上げ、私の打ち上げ、全部合同で馴染みのトルコ料理店で祝杯を上げました。みんなそれぞれの分野でそれぞれの願いと夢を紡いで毎日を生きています。1つの公演が終わり、また、次へ。みなさま、お疲れ様でした。

寒い寒いと調べてみたら稚内が緯度45度、ブッパタールが緯度51度ですから、仕方ないですね。

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