即興に関するよしなしごと(8)

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室岡一さんが録音した「胎内血流音」というものがあります。学生時代、おもしろくてヒーヒー言いながら読んだ中公新書「胎児の世界」(三木成夫著)に出てきて、探し求めました。泣き止まない赤ん坊対策に効果的ということで販売されていました。

いやはやもの凄いノイズです。胎児の大きさを考えると,全身でこの音を10ヶ月聴いていたと思うと想像を越えていますが、人種も民族も関係なしに人類全員がこの経験を持っているわけです。だから、赤ん坊が安心して泣き止むのです。究極の安心がこのノイズであることは人間が生物の1つとして,巨大な何かの一部であることを物語っている気がします。ありったけの喜怒哀楽の叫びも、殺すな!の悲鳴も、歓喜の歌も無にしてしまうこの大音量ノイズ。

ロックやクラブの大音量は、このノイズを無意識に模しているのかもしれません。ロックギターの代表的なイフェクターはディストーションといって音を歪ませる装置であることも無関係ではないでしょう。会場・ライブハウスを子宮にする。

ノイズは即興において、大変重要なファクターです。

ノイズは2種類に分けられます。1つはエンジンやモーターなどの回転から派生するもの、1つは自然の素材の中に含まれているもの。人の記憶を呼び覚ますものは後者であると思います。

回転に基づくノイズは規則的です。胎児の心音が規則的過ぎる場合、病気の可能性が高いというのも示唆的です。生命はノイジーで不規則、乱調にこそ宿るということでしょう。

ここでジャック・アタリとニコラウス・アーノンクールの引用をします。(ちょっと訳が回りくどくてわかりにくいですが、本文を忠実に訳したかったのでしょう。)ミッテラン大統領の補佐官だったアタリのこの本のタイトルはまさに「ノイズ」(なぜか日本版は『音楽・貨幣・雑音』)
「西洋の知は,この25世紀というもの世界を見ることに汲々としてきた。それは、世界が見取られるものではなく、聞こえてくるものだと言うことを理解しなかった。世界は読み取られるものでなく、聴き取られるものなのだ。
 科学はいつでも感性を監視し、手なずけ、抽象化し、去勢しようとしてきた。生とは騒々しいものであり、ただ死だけが静寂であることを忘れて。労働の雑音(つちおと)、人間の雑音(ざわめき)、自然の雑音(ものおと)、買われ、売られ、あるいは禁じられる雑音(おと)、雑音の聞こえぬ所に、何も起こりはしない。
 今や、眼差しは破産した。われわれの未来を見ることができずに、ただ、抽象、無意味そして沈黙からなる現在を作りだしてしまった眼差しは。今や、社会を、その統計に依ってではなく、その雑音、その芸術、そしてその祭りによって見きわめることをまなばなければならない。雑音を聞くことによって、人間の、そして数字の狂気が我々を何処へ導いていくのか、さらに、今なお可能な希望とは如何なるものかが、よりよく了解されえるであろう。」(「音楽・貨幣・雑音」みすず書房 ジャック・アタリ著・金塚貞文訳)

ヨーロッパ貴族の血筋を引くアーノンクールは、古楽の研究を続け、ウイーンフィルのニューイヤーを指揮したりして、まさに「ヨーロッパ音楽」の中心にいます。その人がこう言っています。
「音楽がもはや人生の中心に存在しなくなってから、全てが変わった。装飾としての音楽はまず第一に〈美しく〉あらねばならない。音楽はけっしてわずらわしくてはならないし、人間を驚かしてもならないのである。現代音楽はもはやこうした要求を満たすことはない。なざならそれは、あらゆる芸術と同様、すくなくともその時代、つまり現代の精神的状況を反映しているからである。しかしわれわれの精神的状況の誠実で仮借ない批判は、ただ美しいだけではありえない。それはわれわれの人生をえぐり出す、つまり煩わしいものとなる。こうして人々は、それが煩わしい、あるいは場合によっては煩わしくあらねばならぬという理由で現代の音楽から遠ざかるという、矛盾に満ちた状況が生じた。・・・
〈美しさ〉とは,あらゆる音楽のもつひとつの構成要素である。われわれは他の構成要素を無視する場合にかぎって、美を特定の判断の基準として用いることができる。われわれが音楽を全体としてはもはや理解することができなくなって、いやもしかしたらもはや理解しようと望まなくなって、はじめて音楽をその美しさにまで引き下ろし、いわばアイロンで平らに引き延ばしてしまうことが可能となったのである。」(音楽之友社「古楽とは何かー言語としての音楽」アーノンクール著 樋口隆一・許光俊訳)

我らがアジアの先哲の意見を、岩波講座「日本の音楽・アジアの音楽6」笠原潔「中国古代の音楽思想」論文から引用します。

荘子・天地篇「冥冥の中に独り暁を見、無声の中に独り和を聴く」(盛徳の人は、暗闇のなかに暁を視、音無きところに楽の和を聴き取る)
孔子・間居篇「無声の楽(音を発しない楽)こそ究極の楽である」
荘子・斉物論篇「〈人籟〉とは人が笛を吹いて出す響き(音楽)、〈地籟〉とは風が木の虚ろに吹きつけてたてる響き(自然の音響)である」〈天籟〉とは、「人籟にせよ、地籟にせよ、空気の吹きつけ方は異なるが、穴が音を立てるという点では皆同じである。音を立てるものは穴であるが、その穴に音をたてさせているものは誰だろうか」
「人籟を聴くとは笛の音に耳を傾けること、地籟を聴くとは自然の音響に耳を傾けることを言うとすれば、天籟を聴くとは、人籟を人籟として成り立たせているもの、地籟を地籟として成り立たせているもの、に耳を傾けることを言う、すなわち人籟・地籟の区別を越えて、それらの背後にある根源的な存在に耳を傾けることを言う」

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