即興と作品

即興と作品でソロ演奏をして欲しいという依頼。

私自身のテーマにも重なるのでお引き受けした。会場のサウンド・イメージ研究所「dzumi」には一回行ったことがある。井の頭公園を眼下に一望できるところでアナログレコードの極上音、ワイン、チーズが楽しめる。音楽関係の珍しい本も豊富にある。オーナーの泉さん曰く「普通こういう店は地下にありがちだったけど、そんなのイヤだからビルの7階に」したそうだ。「若い人たちにいろいろなことを伝えたいんだ」と定年退職後に念願のカフェを作った。江戸っ子っぽい、粋で鯔背な感じ。ミュージック・バードの音楽番組もここで録音しているという。

そういう指向だと演奏しやすいと思った。即興はこういうもの、作品はこういうものという意識は邪魔にこそなれ、ためにはならない。即興が好きだ、と言っても結局は有名ミュージシャンの音源コレクター、ミーハーファンであったり、果ては珍しいもの発見愛好者だったり。また、インターネットのせいだろうか、情けないほど少ないボキャブラリーで「文化祭」程度の「評論」をして遊んでいたりする人たちが多く、辟易。

前半、作品の部では、高場将美さんご臨席ということもありピアソラ四曲(コントラバヘアンド、タンゴエチュード第三番、ブエノスアイレスの秋、エスクアロ)、ブラジルのショーロから「鱈の骨」、ビオレッタ・パラの「ありがとう命」続けて「オンバクヒタム桜台」から抜粋を演奏。

私にとって即興演奏は決して「破壊」「引き出しの羅列」「決め技の披露」「コンセプトの消費」ではなく、「歌」・「音楽」が生まれる直前を体験したいという方向と、音がどんどん匿名になっていくのを見守りたいと言う気持ち、また、ある意味極限状態で自分が何をするのかという興味などなどがあって続けている。即興をするのなら、即興でしか得られないことをせねば。

「音楽」が生まれる直前をより味わうためには、簡単に「生まれ」させてはダメ。そうじゃない、そうじゃないだろ、を繰り返し、どうしても生まれてくる、生まれてこざるを得ない強さを持ったものであって欲しい。やっぱり欲深いのだな。極限状態で演奏するにしても、日頃の準備が何より大切だ。反応しやすい、動きやすい心と身体を保つのが大仕事だ。囚われてはいけない。岡本文弥さんじゃないけど「長生きも芸の内」か。

匿名性に向かうとすると、「資本主義」から離れてしまう。プロの演奏家とは、その人にしかない音色、技術をもちその価値を差別化して、経済化しているという現実がある。それを否定してしまうのだから、入場料やチャージをいただくわけにも、終わった後拍手をいただくわけにも行かなくなる。著作権だって否定することになる。どうする?

フランスの著作権協会はしっかりしていて、ミッシェル・ドネダの日本ツアーの時にもいろいろあった。美術のインスタレーションとのコラボレーションの時も、「私はこの美術展にサンプル音を出すだけですので、著作権を否定します」と一筆入れなければならなかった。振り返ってジャスラックは即興演奏には著作権を認めていない。「曲」とは曲がったもの、すなわちメロディ、という前提がある。「composition」は「構成」、だいぶ様子が違う。ジャスラックは、周回遅れなのだが、進んでいるようにも見えてしまう。

この日の発見は、作品をやるときも、即興の時も自分の中でさほど変化がなかったということだった。別の脳を使うはずだから休憩を長く取って別人格でやろうと思っていたが、すぐにでも対応できる自分がいた。それはあっけらかんと楽しい感覚だった。もちろん即興演奏に関する課題は解決したわけではない。解決しようがない状態を示していくこと、疑問を提起すること、問いを引き出すこと、それが現状なのかもしれない。

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