西方へのツアー その2

メキシコの睡眠反対幽霊はなかなかしぶといですが、深い朝寝ができました。おかげで朝食を摂るヒマもなく彦根駅に走ることになってしまいました。10月19日。私の祖父と元藤燁子さんの命日。特別な日ですので、普通に特別に過ごしたい日です。

名古屋能楽堂へ久田舜一郎さんの道成寺を観に行くことを予定。二年前に東京で観た久田さんの「道成寺」にはまこと背筋が凍った。もう一回観たい、確かめたいと思っていた演目。この日の過ごし方としてこれ以上のものはないだろう。彦根・米原は交通の要所。何処へでるのも便利。あっと言う間に名古屋。(夜は様相が一変する。後述)プラプラあるいて名古屋城のところにある能楽堂へ。ちょうど「道成寺」の前の狂言がかかるところ。

ちょっと汗ばむほどの天候なので能楽堂の中も私の身体も重心が少し高い。懸命に鐘を吊る作業を見つめながら、落ち着け落ち着けと言い聞かせる。いつものように気合いの入った久田舜一郎さんのオールバックが光っている。真剣勝負師の面持ち。「道成寺」開始約1時間後、楽しみにしていた仕手と小鼓の一対一の乱調子が始まった。気合いの入りすぎを心配するほどの声・鼓。約20分の勝負があっと言う間に過ぎていった。東京で観たものと全く違う流れだった。「斎藤さんやドネダさんとやっていることが、役に立つんですよ」と言ってくれているようにこのシーンは本当の意味でのインプロヴィゼーションだ。

こんなにすさまじいインプロの伝統があることに、なぜか誇りを感じるとともに、「インプロ」「インプロ」とかまびすしい人たちの間でこういう行いが話題にならないのが不思議。私の中の「ミラー細胞」が一緒にインプロをしていたので、良い演奏後のようにすっきりと会場を後にした。ロビーでお会いした久田さんはいつもの久田さんだった。あたりまえか。「型をやっているだけです。」と、かっちょいいことを言うこの人は次期人間国宝。

その後、堺の住職、磯部さんと地下鉄の駅で待ち合わせ、辛い辛い中華とビール。この人と会っていると元気になる。この人の笑顔は世界を救う。ビールの勢いもあって、一緒にテレビ塔下の「ラブリー」へ行く。井野信義さん、高瀬アキさん、ジルケ・エバーハルトさんが演奏している。先週エアジンでお会いしていたが、演奏を聴くことが出来なかった。オーネット・コールマンの楽曲を演奏していた。私も青春時代に聴き込んだ作品が次々に演奏されていく。IMA静岡の井上さんも聴きに来ている。マスターの河合さんもお元気そう。ここには何回か高柳さんと来ていた。多くの人が日本のジャズシーンを支えてきていることを感じる空間だ。そして同時に私がジャズ界から離れてしまっていること、いや、はじめからいなかったのではないか、などと思ったり。河合さんははじめから見抜いていたのか「テッちゃん、ジャズやるならいつでも応援するからね」と言われたことを思い出す。

第一部終了後、ラブリーを後にする。距離的には近い彦根に夜間はなかなか着かない。10分おきに走っている「のぞみ」は米原には停まらず、「ひかり」は1時間に一本。米原から彦根(隣駅)への列車もとても少ない。11時06分という早い最終電車になった。長い待ち時間にiPodに入れてきた志ん朝師匠の「火焔太鼓」を聴く。志ん生師匠と一字一句同じなのだが、初めて聴くようだし、なにより楽しい。にやにやしながら、暗く静かな街を歩き西覚寺へ。

「のぞみ」の停まる大都市中心のこの文化はおかしいし、このまま行けば早晩自滅するだろう。「のぞみ」は無い。コイズミカイカクで加速されたこの流れ。勝ち組がすべてをさらっていって、すべてが一つの価値基準のピラミッドの中に配置される。商店街のシャッターは閉まったまま。そんな中では、能も音楽も落語も、いや生活そのものの創造的な発展はできまい。ここ西覚寺の住職ご夫妻は、毎晩朝三時まで、古文書の読み取り、検証を何年も何年もしているし、先代ごえんさんは、布教や説教のためにずっと歩いていたという。そう言う日々の行いから実になるものが生まれるのではないか。わたしにとっての「それ」は何だ?と思いつつ、住職ご夫妻と遅くまで楽しく話し込んでしまった。

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