なぞり

「シマンデル」というコントラバスの有名な教則本がある。かつて教則本が少ないコントラバス初心者にとって必須と言われ、私もやった。もともと変にマジメなところがある私はマジメにやった。だいぶ進んだところで困った。ちゃんと弾くことが難しいフレーズを何回もやっているとそのフレーズが頭にこびりついてしまって取れない。全く音楽的でない!フレーズが住み着いてしまい日常が嫌で嫌で仕方なくなった。コントラバスを遅く始めたこともあって「根性」入れて稽古せねば、という意志が揺らいだ。

人間はそれほど強いものではないから、考えたこと、見たもの、聴いたもの、食べたもの、飲んだもの、そして出した音、が全部身体に堆積されるのではないか、と考えた。根性で練習して、音楽的でない音ばかり出して、身体に聴かせているととんでもないことになるのではないかと考えた。なるべく良い素材を選ばねばならないと。

一方、伝統の世界はもっぱら「型」を教える。型にすべてが入っている。「個性」などは型を叩き込んでから先の話。鼓の修行は何年間も殴られっぱなし、しかし修行が終わると一人前になっていたと聞く。「五段砧」の千回弾きの話も忘れられない。「型」が、選りすぐられた最高の素材で成り立っているとすれば話は通じるかもしれない。

「音も色も振動しているものとして考えれば同じです」と長いつきあいの画家二人に言われた。「次の色を決めるときは、色に聴いてみるんだ」とは先日も引用した「ニキフォル」での台詞だ。

音と映像のコンサートはむずかしい。その場ですべてがインタラクティブに進む場合以外は、細心の注意が必要だ。「雰囲気」を作ることだって音を規定してしまう。飛び立とうとしている音に着物を着せ、味を着け、化粧を施す。何処にでも行けるはずの音が萎えてしまう。本来、何の説明も「なぞり」もいらない。演奏家も作曲家も知らなかったことだって起こる可能性がある。いや、それこそが目的とだって言える。説明した時点でその小さな世界に規定してしまう危険性がつきまとう。集めることでなく削ぎ落とすことが飛翔するステッピングボードになる。

所有したと思った瞬間に手から漏れてしまう。そんなに欲しがっては何も手に入らない。

なぞり

2 件のコメント このエントリのコメントを管理
みきち
ちかごろ 「平均律の呪縛」を初めて体感して 自分で驚いてます
(単に音痴なだけという話も)
2008年7月1日火曜日 – 05:30 PM
tetsu
みきちさま
コメントありがとうございました。律令制度の「律」って音律のことらしいです。音律を決めることが世の中を支配することだった!とは驚きです。自分の律ってなんだろう?と思うこの頃です。
2008年7月2日水曜日 – 11:02 AM

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