絵と踊りと音との旅 その3

昼過ぎに、全員で新幹線移動。隣が小林さんだったのでいろいろ話す。お互いの世界での話が専門的であればあるほど、面白い。素材に関すること、現代が失ってしまったこと、などなど合点がいくことが多い。人間の手作業は、ジャンルや時代にかかわらず、営々と続いている。ノイズのこと、雑味のこと、最近の傾向のこと、話は尽きない。

彼は、今朝インタビューを受けていた。インタビュアーは、小林さんから、原爆の話より、日常の広島のポジティブな話をしてほしいようだった、という。ワルシャワでアバカノビッチとのコラボレーションの後、ラジオのインタビューを受けたとき、私も同じような体験があった。「戦争のことを忘れてはならない」という私の発言に動揺したインタビュアーは「私達は戦争のことを早く忘れたいのだ」と。

沖縄で劇団「衝波」と一緒にやったとき、彼らがヤマトに対する怒りを激しく表現しているのに対し、年長の琉球リトアニア協会の人たちは、なんとも温かく見守っていた。立場によって、時代によって、視点や主張は複雑に変化する。絶対「正しい」ものなどない。それどころか「正しい」ことは時として表現の現場では何の役にも立たない。邪魔なだけ。そういうさまざまな条件を、客観視できる瞬間を与えてくれること(時間の流れを止めてくれるもの)、それこそが表現の役割だ。

そうこうするうちに京都に着く。ここでまた、旅するベーシストにお知らせ。最近の新車両のタクシーは、助手席が倒れなくなっているものが増えています。これでは中型車でもベースは乗せられません。タクシーを頼むときは、1,助手席が倒れる。2,ドアミラーでなくフェンダーミラーの車両、という条件を確かめましょう。

芦屋画廊の北川さんが今回も仕切ってくれている。もう長いつきあいになる。ある時は秀吉の女官が全員死んだというお寺で、ある時は、超高級住宅展示場の豪華な部屋で、ある時は町中の歯医者の待合室で。身体がボロボロになっても良いものを必死に求めている態度にはいつも感動する。今日は、お知り合いの別宅。

錦龍館・元剣道場だった場所をコンサートスペースに改築したばかり。窓からは大文字山がくっきり。関西の大人達は遊ぶ・楽しむことが上手だ。普通のコンサートスペースではなく、いろいろなところで企画する。大人が遊ぶ、それが文化の伝統なのだろう。東京のお子ちゃま文化はいつになったら追いつけるのか?ムリだろうな~。

三者とも各自準備を始める。今回も床が石。岩下さんはたいへんだろうが、そこは百戦錬磨。Just accept and enjoy the difficulties 。場所が多少わかりにくかったため少し遅れてスタート。今日も小林さんが絶好調で筆を進める。1枚目は今までの中でもかなり完成度の高いものになった。私も岩下さんも「今・ここ・私」度の高いものをめざし演技を続ける。

京都というと高田和子さんとの思い出が多く、私は「ありがとう命」を忍び込ませた。聴衆の中に、京都造形芸大の太田省吾さんのスタッフが来ておられた。高田さんのコンサートシリーズも関わっていた。この夏、一週間と違わずにお二人ともあっちの世界に行ってしまった。「太田さんも斎藤さんと一緒に仕事をしたいとおっしゃってましたよ」と聞いて、本当に大切な人たちを亡くしてしまったことを実感した。どうすればいいんだ。全く。

休憩を挟んで第2部。途中で岩下さんは、大きなガラスの扉を開け、庭に出た。私も楽器を抱えてついていく。月が正に煌々。月を一緒に楽しもうと聴衆を手招きする。聴衆も庭にでて月を愛でる。小林さんの二枚目は水に浮かんだような絵、月から何かが漏れているようなところを描いたところで全体が終わった。フランス人作曲家でベーシスト(ジョエル・レアンドルに曲を提供したことがあるそうだ。)岡本寺の柏井さん、臨光寺の磯部さん(おみやげに海童道のLPを持ってきてくれた。今の私にはなによりのプレゼントだ。最近、海童道の音が以前よりはっきりと身体に入ってくるのだ。)、いろいろな知り合いが聴衆の中にいた。ありがたい。うれしい。

打ち上げは、先斗町のおばんざいの小さな店で楽しんだ。「滅多にない」絵と踊りと音のツアーが無事終了した。

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