ワークショップ、沢井一恵さんを招いて;
話すとは、身体の中から喉・口を通ってでてくるコトバを、その人とその他の人一緒に「聴く」ことなのだな〜と思いました。
一恵さんの口からでてくるコトバが人々の耳に届き、蝸牛菅のリンパ液を揺らし、琴線を振るわせ、心に届くのが目に見えるようでした。
いったいどこからそのコトバはでてきているのでしょう?
私などは「そうそう、そうなのだよ、よく言ってくださっている!」といちいち拍手をしたい衝動に駆られました。
(31年のお付き合いで世界各国をご一緒したわりには、こういう本格的な音楽論・人生論はしたことがないのです。)
そのコトバは「いずるば」にいた人々の耳と身体と心に共有するものとなりました。さらに記憶に刻まれ、多くの思いもよらぬ出口から出ていき多くの人・時間・空間を繋げていくだろう、そんな様子でした。
その一恵さんのコトバを聞いて涙する聴衆が何人もいらっしゃいました。こういうのも稀ですね。感動させる逸話を話しているのでも、哀しい話をしているのでもなく、ご自身の今までの経験、願いなどを淡々とお話になっているだけなのに・・・・
その極個人的な経験は、普遍へ直結し、ちょっとした手の仕業が天を覆い尽くす。
箏曲院を設立、3人出産、子育て、17絃奏者として再登場、多忙な日々(演奏活動と共に、箏・十七絃の普及に尽力)、ご家族の病気、死、(わたしの作品Stone Out。実はその頃の沢井家のことが動機になっています。)
それらを全て乗り越えて、現在、ご自身も身体を病んでいらっしゃるにもかかわらず、願う音を強く強く求めつづける、何のため?もはや善悪、個人の願いなどの範疇では測れません。
その業といえそうなある特異な人のファドを聴かせていただいた気がします。言い訳はいっさいありません。ご自身に依存もせず、所有もせず。しかも何かを信じて。
決して、深刻にならず、笑みを浮かべ、あたかも超越した「かろみ」(軽み)に達しているかのような親しみやすさ。
かういうひとにわたしはなりたい、(が、なれないでしょうねえ)
写真:齊藤聡
当日用意したメモ(半分も話せなかったけれど大満足でした)