沢井一恵を迎えて

私にとって平成の31年はすなわち沢井箏曲院との31年でした。

偶然出会った(エキストラで来た)栗林秀明さんの初リサイタルが平成元年でした。昭和天皇の葬儀などで世の中が暗かった。邦楽の人って皇室に特別な意識をもっているのかな?どう話せば良いのかな?と思っていたほど邦楽界のことは何も知りませんでした。

実際は、普通の人達でした。しかし、沢井箏曲院でお会いした方々は、音楽に対して大きな大きな希望と願いと可能性を持っていらっしゃいました。そうでなかったら私のやっていることに興味を持ってくれていないでしょう。リハーサルを何回もやってくれたりというのはクラシック界、ジャズ界ではお金が無いと成り立ちませんが、彼らは合宿までしていくらでもやってくれました。

特に当時、一恵さん秀明さんを中心に、即興に対して大きな期待と可能性を感じていて、それをいろいろと試したいという雰囲気がありました。沢井忠夫さんがペーター・コバルトとデュオ録音をしたり、お仲間の山本邦山さんが盛んに即興演奏を試していたころになります。

一恵さんの活動も世界中に箏アンサンブルを伴ってツアーを行い現代音楽祭、ジャズ祭などに出演、各地で話題を振りまいていました。そのほか、何人もの箏曲院メンバーをアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパに派遣、滞在させ(大学など)、箏の普及に全力を振るっていました。その種が芽を出し、今、多くの実りを産み出しています。

栗林秀明さんと開館前の湯河原空中散歩館で録音したのが「彩天 Clororing Heaven」バール・フィリップスさんの初来日の時でした。豊住芳三郎さん参加。アケタズディスク廃盤。

私にも勢いがあり、栗林秀明さん、広木光一さん、佐藤通弘さんを誘い、弦楽四重奏、を組織。邦楽器を入れることがあたかも「いろもの」だったころでした。弦楽器にしかできない音楽を共有できました。このカルテットに琵琶、篳篥、フルート、打楽器をいれてオーケストラもやりました。「String Quartet of Tokio and Orchestra」CD。

時がちょっと早すぎたのでしょうか、国内ではあまり評判は立ちませんでした。ベルギーのフレッド・バン・ホーフさんが非常に興味を持ってくれ、ベルギーのフェスの招待してくれましたが、メンバー事情で断念。(あの時行っていたら・・・なんて考えるのは止めましょう)

このオーケストラに、韓国伝統音楽・シャーマン音楽が入るのは今考えると自然でした。それがユーラシアン弦打エコーズなのです。もちろん一恵さんは参加しています。

ユーラシアン大陸の弦楽器を辿る夢想もあり、そこから逆に日本の箏、十七絃とは一体何か?を考えるようになりました。

インドネシアから上昇する海流に思いを託したオンバクヒタム企画が南から北のベクトルで、ユーラシアンエコーズが西から東のベクトルです。その交差のオペラを書きたいものです。

もう一つの興味、即興(そして、それは作曲とどう違うのか)を求める先がヨーロッパに向かいました。即興は即興しかできないこと、作曲なら作曲でしかできないことをやれば良いのだという最初に抱いた直感を確かめる旅のようでした。

ヨーロッパに即興ツアーで行ってバール、ミッシェル達と演奏を続けいた時、一恵さんはさまざまなガラスのコップを求めてそれで演奏していました。それは帰国直後に予定されていたソフィア・グバイドゥーリナの作品に使うためでした。

韓国伝統音楽でのシャーマン達との演奏は夢のようでした。それからずいぶん経ってから西村朗さんが「かむなぎ」という十七絃とパーカッションのための曲を韓国伝統音楽(特にリズム・長短)にインスパイアされた曲を書きました。(菊地悌子さん委嘱)。その曲を一恵さんはご自身の感じる韓国のビートでやりたいと思い、私にパーカッションのパートを何とかコントラバスでやるように、という無茶ブリをしてきて、たいへんお気に召し、コンサートのトリの曲に使う時期があり、国内外連れて行ってもらいました。CD「THE KAZUE SAWAI」邦楽ジャーナル収録

さて、お互いに身体を壊した今、何ができるか分かりません。しかし共有した記憶・体験は膨大なものがあり、そこから拾ってくればいくらでもあるのです。何も新しいものは必要ないのです。

北海道から、広島から、大阪から、インド!から明日のために集まるそうです。何が「いずる」場になるでしょうか?

ともかく明日は楽しみです。