新しいお客様

あらたなお客様

ままならない身体に、さらにあらたなお客様さんがいらっしゃるようになりました。その名は、伊丹さん(別名・痛みさん)です。常連さんになりそうです。彼が来ると私の身体(特に肋間)をひどく苦しめます。

彼が来ている間、アンカを抱えながらユラユラして、帰るのを待つのみ。彼が興に乗って騒ぎだすと、いても立ってもいられずに、ましてや寝ているわけにもいかず、歩き回ったり、擦りまくったり。挙動不審。肋骨の間を指で擦りマグロ「中落ち」の気分を味わいます。

いまのところ、2〜3時間くらいで去ってくれることが多いです。こちらは3種類の鎮痛剤を処方してもらっていて、どれをどのタイミングで摂取するかを学習中。

その間は、すぐにも楽器の練習ができるようにすべてが整っていても、執筆のキーボードが用意できていても、やりかけの作曲があっても、まとまりそうな考えがあっても、何もできません。これが辛い。

「だってしようがないじゃない」というファイナルワード(禁句)を呪文のように連発します。ワークショップメンバーには顔向けできませんが・・・

しかし:

辛い、辛いと言っているのは、伊丹さんとGANDさんに依存しているだけとも言えるのではないか?

だからこそ、この時をどう過ごすから問われます。チャンスだってあるはずです。ダイヤモンドだったあるかも。転んでもただでは起きないのこころだ〜。

病気や痛さに依存してしまうこと。病気や痛みを所有してしまうこと。それが新たなわだかまりになるのではないか?複雑さを増加させているだけではないか?ますます囚われてしまい、病気に居心地の良さをさえ感じてしまうのではないか?

なんてたって今はワガママ言い放題。王様です。だいたい通ります。
キャンサーとペインですから。

そこに甘んじず、さあ、何か見つけよう!

アンカを抱えてユラユラ揺れるしかない自分。揺れることは命にとって大事なこと。「おい、大丈夫か?」と言って揺する、「ねんねこさっしゃりま〜せ〜」と赤ん坊を揺らす。

揺れることは、なにかとなにかを混ぜること。混ぜることが生きること。生は乱調にあり。言葉で言えば「どもる」ことは、もう一人の自分との揺れの繰り返しの中で言葉が揺れて生まれ直すこと。考えがつまずく(躓く)ことも同じ。

揺れる〜振動〜色・音〜交ざる〜ハーモニー〜雑音
どんどん拡がります。

さてそんなちょっとクリエイティブに戻った新たな眼で庄﨑隆志さん・矢萩竜太郎さんを見てみます。

お二人とも、まったく御自身のハンディキャップ(聾とダウン症)に依存してない!ことを発見。

ハンディは当たり前のこととして考慮にも入れない。スタートライン以前。そこからのバイアスはゼロ。

竜太郎さんに、即興ダンスがあること(やりたいこと、好きなことがあること)が、ダウン症でよく言われる「ゆっくりと歳を取っていくが、老け始めると早い」への反証ではないか、と言われています。

ダウン症に依存しないで、即興ダンスに賭けることが彼を生かしている、とすれば、癌に依存せずに、自分の仕事に賭けていけば良いという、私にとって最も有効なアドバイスになるではないか!

まったくこだわりなく「大丈夫」と連発する庄﨑さん。大丈夫かどうかなど考えても仕方ないので、大丈夫なのだ!と言い切って、いまできることを感謝して精一杯やるだけという彼の姿が見えます。

そしてもう一つ二人の共通項は、「ともに」を喜びとしていること。ひとりでできることは、ともにやるともっと嬉しいというこころ。

札幌に「ともに」という施設があり、大西なお子さん(一恵さんの生徒さん)と渋谷英利さんに紹介され、ジャン・サスポータスさんと一緒に訪ねました。みなで演奏。忘れがたい経験をしました。「クセニティス」をやって好きな言葉を言ってもらったら「おかあさん」とか「ありがとう」とか、あまりにもど真ん中ストライクで感動しました。

お〜い、みんな〜、待っててくれ〜。