「人間っぽい」感覚?
抗がん剤を打って10日過ぎると、その感覚がいくつかムクっムクッと出てきます。そして、通常は直ぐに次の抗がん剤を打たねばならない日程になるので、その2〜3日が「人間らしい」感覚と共に生きていけるのです。その感覚が「懐かしく」「好ましい」ので、診察室のドアをノックするときは、毎回、「もう止めたい!」と思うのです。
その「人間っぽい」感覚とは、生きていく上での基本的な大事な感覚ではなく、余計な感覚、余分な、些細な感覚のようなのです。それらがよみがえってくると、あっ、なんて人間っぽいんだと思うのです。
その余計な感覚が実は大事なのかも知れません。三角みづ紀さんの詩「患う」の中で「自分が人間であると錯覚してしまった」というフレーズに惹きつけられました。
私は癌と闘っているのか?抗がん剤と闘っているのか?ほとんど区別が付きません。しかし私の日常の挙動をじゃましているのは明らかに抗がん剤のほうです。
複雑なのは、抗がん剤にしても直近に入れた薬であるのか、過去に入れた薬によるものかハッキリとは分からないのです。現在の症状の元凶は、どうも2年3年前に入れた薬のようなのです。特に昨年再発発覚後に2回だけ入れた薬が未だに猛威を振るっている可能性もあります。
現在入れているものは「穏やか」なもので、私が今、もっとも苦しんでいる痺れ・浮腫み・爪割れを引き起こしてはいないと言います。
といっても、なにしろ劇薬ですので、看護師は点滴針を刺すとき、抜くとき、新品のゴーグルとエプロンを付け、カーテンを閉めます。そして作業が終わると30秒使っただけのゴーグルとエプロンを廃棄します。ほんの少しでもその薬が飛んでどこかに付くことが危険であるので、それを絶対に避けたいという意図でしょう。
ともあれ、私は、抗がん剤に打ち勝った新人類になってやろうじゃないか、と思っています。ごきぶりのようにさまざまな耐性を徐々に育て身につけ、抗がん剤にも負けない新たな人類見本となるわけです。ハハハ。
我が体内で生を謳歌している癌達に告ぐ!諸君は楽しく暮らしているようだが、宿主の私が死んでしまえば、諸君も死んでしまうのだよ。
そのあたりを忖度して、すっとアポトーシスしてくれると私も君に感謝しながら、もうすこし仕事ができるのだよ。それは世のため人のためになるのだよ。ちょっと考えて見てくれないか?
明後日が診察の日、CTスキャンの結果も出ます。
写真:前澤秀登