月・神・宴

月神宴(9月30日江古田音楽化計画 深山マクイーン時田、鈴木ちほ、わたくし)

十七絃もバンドネオンもコントラバス(特にガット弦)も「月」の楽器ではないか、とチラシに書きました。月族同士は一聴地味ですが、とても美しく深く響きます。ここに太陽族の箏、アコーディオン、バイオリンが入るとソロ楽器としてとても目立ち、「わかりやすいおんがく」になるでしょう。しかしこの日は月の日です。地味の中に派手。白の中の黒。静寂の中の騒音。

神にのみ許された行為としての遊びと古今東西しばしば言われます。子供を神に見立てた「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」(梁塵秘抄)とも。そのように無心に遊ぶ。さらに発展させてホイジンガのホモ・ルーデンス(遊ぶものとしての人間)と拡がります。最近「ホモ・ルーデンス」レオ・ブローウェルの作曲CDも真剣に「遊んで」いて良かったです。

この江古田の日は「うたげ」を特に感じます。

ジャズベースはサポートメンバーとか、リズムセクションと呼ばれるように、もっぱらリズムをキープすることが役割でした。最近の私ならばその役割を全うすることにやぶさかではない、というかやってみたいと思います。が、かつては、自分がベースをやっていることが座りの悪い感じでした。私の録音をふり返ってベースがもう一人(以上)いることがとても多い。

四半世紀前ですが、ダグラス・イワートというAACM(Association for the Advancement of Creative Musicians)会長も務めたプエルトリコ出身のサックス奏者が東京に滞在していて、尺八の研究をしつつ(海童道のことをよくご存知でした)LIVEもしていました。尺八の中村明一さんやモダンダンスに誘われ何回かセッションをし、その折に、AACMのことをいろいろと聞くことができました。その中で印象に残っているのは、「メンバーは全員ソロ公演とアンサンブル公演をしなければならない」ということです。そういえば、アートアンサンブルオブシカゴのメンバーがソロ録音をどんどん出していました。

ベースも、十七絃も、バンドネオンもソロとアンサンブルの両方をやる方が良いのです。この日の三人の奏者は日頃「孤独に」音を出し続けています。それがあってこそ「うたげ」がなり立つのだと思います。

人と繋がるために人の前に出て宴に参加することと、誰が見てようが見ていまいが、人知れず楽器を弾く、その両立こそが必要。寂しさから群れると却って孤独になり、一人立っているもの同士が集ってこそ「宴」がなり立つ。演奏予定の私の曲は「孤独な」主題が多く、マクイーンさん、ちほさんのボーカルもあります。上手に歌わなくても良いのです、とか言って、私も数小節、歌います。

音は出した音そのものだけが必要ではなく、音になったものと音にならなかったものの総体が音なのだ、という最近のマイブームと重なってきます。

良寛和尚の無絃琴の詩はとても良い。

漱石の書斎に「無絃琴」という書が飾ってあったとか。

静夜草庵裏(静夜草庵の裏)

獨奏没弦琴(獨り奏す 没絃の琴)

調入風雲絶(調べは風雲に入って絶え)

聲和流水深(聲は流水に和して深し)

洋洋盈渓谷(洋々として渓谷に盈ち)

颯颯度山林(颯々として山林を度る)

自非耳聲漢(耳聾の漢に非ざるよりは)

誰聞希聲音(誰れか聞かん 希聲の音)

帰去来で有名な陶淵明は

淵明不解音律(陶明音律を解せず)

而蓄無弦琴一張(而して無弦の琴一張を蓄う)

毎酔適輒撫弄(酔うて適う毎に輒ち撫で弄んで)

以寄其意(以てその意を寄す)

と詠んで酔っ払って今で言うエアギターを弾く。

これで充分音楽の役割は全うされるのです。

音は聞くものではなく、待つもの、という白川漢字語源説を裏付けます。

書は乾千恵さん筆