言葉の叛乱か?

言葉の叛乱

思えば今の若い人達の多くは、好景気を知らず、活気づいた世の中を知らず、夢も希望ももつことを予め許されず、マスコミも政治も警察も司法も信じることができずいる。代わりになる指標は専らお金。勝ち抜くのはごくごく少数。がんばれば誰でもなることができる、と言われた時代は遠い。

言葉を信じることができない、言霊などなおさら信じることができない。それは人を信じることができないことに繋がり、愛を信じることができないことに通じる。

日本でダンスが流行り、一時的なものと見られていましたが、どっこいもう20~30年は続いています。信じることができない「ことば」に代わって、だれもが共通認識、共有感覚を持てるのが身体。ツマミやスイッチを回したらいくらでも増減するものと違う。限界だらけの身体。そこに「嘘で無いもの」「リアリティ」を見いだしたのがダンスブームの側面だろう。

昨今は、政治家・官僚たちのあまりにも慇懃無礼な言葉の連発、無意味な言葉でごまかされる、あやまって訂正すれば良しとする、月給カットすれば許される、さらには、嘘と分かっていてもそのまま通ってしまう「言葉」。こんなに言葉が軽んじられている。

土方巽が「肉体の叛乱」を上演したのがちょうど50年前。私は土方フェスティバルでこの映像に即興で音をつけてみろ!という仰せを受けたことがあります。現実の舞台映像をさらに編集し、インスピレーションに溢れた部分ばかりなので、目も眩みそうになりました。(長年私の演奏を見ている娘が「オトーサン、どうかしちゃったかと思って心配したよ」というほど尋常ではありませんでした。)テクニカルチェックでも少しやったのですが、本番では観たはずの動きは全く違うという感覚。

ともあれ、モダニズムの危機感を先取りした「肉体の叛乱」だったのでしょう。

さて、15日の第Q藝術での会では、現代詩人の詩に曲をつけたものを松本泰子さんに歌ってもらい、さらに、庄﨑隆志さん(聾のダンサー)に踊ってもらいました。壁にはプロジェクターで詩を投影しています。

この日、上野、仙川でもポエトリーリーディングが催されていたとのこと。何事か?

「言葉の叛乱」が起きつつあるのか?

言葉が意味の中に押し込められ、言葉と意味が一対一対応になり、それ以下になり、スッカラカン、すれっからし、もう叛乱を起こすしかないほど追いつめられたのか。

このまま進めば、言葉を奪われる状態に近づいていくのではないか。奪われても気がつかない。もう奪われているのかもしれません。取り戻すには、詩から、歌から、丁寧にコツコツと。

岸田理生さんの最後(から2番目?)の戯曲「空・ハヌル・ランギット」では言語を奪われた三人のアジア人が自らの言葉を懐かしむシーンがあり、私はサウダージ感を意識したショーロを作りテーマ曲にしました。

プロジェクターで投影した言葉を「眼」で追い、歌になった言葉を「耳」で追い、音を介さない聾のダンサーのほとばしる汗と匂いを五感で感じ、ミラーニューロンで参加し、という私にとっては、なんとも奇跡的な経験でした。切り取られた言葉が強調され、指さされた言葉の先を指し示し、ダンサーの影がもう一つの現実を写します。

参加してくれた詩人(渡辺洋・三角みづ紀・野村喜和夫・寶玉義彦・薦田愛・木村裕・市川洋子)、出演してくれた泰子さん・隆志さんの「これしかありえない」「どうしてそこまでいけるの」という歌・ダンス、プロジェクターの平山さん、手話通訳の古川さん、第Q藝術の早川さん(照明も)・高山さん、雨の中ご来場くださった皆さま、ありがとうございました!わたしにとって、もう一つ忘れられない人生のお土産が加わりました。

追記;私の指は、リハーサル・本番最後までヨレヨレながら動きました。ベースとしての常識である基音、5度4度3度の指の形がどうしても押さえきれません。が、基音は聞こえてくるはずだと信じてやりました。聞こえているはずの音を実音でだすのは「なぞり」だ、とかつて禅に凝っていたころのゲイリー・ピーコックが言っていたのを思い出しながら・・・