今週金・土と2日連続でダンスの公演があります。
私にとって、とても重要な公演で、2人のダンサーとの共演に多くの期待と責任を感じています。
副作用は相変わらずで、先日のクールジョジョでも後半に左手の指がつってしまったのですが、あまり気づかれてなかったようです。エリントンのキャラバンの時で、ああいうラテン系の反復パターンはけっこうキビシイですね。幹子さんにも「もし、途中でベースが止まってしまっても続けてね。」と言っておきましたが最後まで「持ち」ました。今週も点滴を3回やって置きます。(その間に、癌研での三ヶ月検診です。術後1年検診にもなります。結果は来週。)
岩下徹さん・矢萩竜太郎さん、この2人のダンサーからどれほど多くのことを学んだことでしょう。それは「学ぶ」というようなクールなものではないように思います。自分を発見する、いや、発見というようなカッコイイのもでもなく、自分をさらけだされる、良いところも、悪いところも、というかんじでしょう。ソラリスの海のように触れないでおきたいことが目の前に現実としてでてくる、そして、それが現実とともに変化していく。一瞬たりとも不用意に過ごすことができません。そしてそれだけのものが還ってきます。
「ぼくのからだはこういうこと」というタイトルは衝撃です。彼は彼の身体をいちばんよく知っています。自閉症の東田直樹さんやイド・ケダーさんの著書に、彼らはなんでもよく分かっている、しかし、その反応がうまくできない(時に正反対の反応をしてしまう)ということを思い起こします。
いざと言うとき(生死がかかったとき)に誰が味方で誰が敵か?優先順位を過たずに、嘘を見分け、幻想に溺れずに判断しなければ生きていけません。それが本当の生きる力。
それは副作用のために「できない」私自身の経験ともリンクします。
どうしようもなくできないこと、それは受けとめるしかない。その中で諦観とともにブルースが生まれます。うたが生まれ、ダンスが生まれ、少しの時間、救ってくれる。その幻視・想像力の中で「根を持つことと羽根を持つこと」ができる。
「ぼくのからだはこういうこと」というルートを一緒に通過することで、自己表現を抜けることができるとも感じます。うたうことおどることは、いま・ここで一緒に生きている「ジンルイ」「ヒト」としての共感を育み、共有する。こんなこともできる、あんなこともできるを共有するとともに、こんなこともできない、あんなこともできないことを共有できます。
障がいがあっても、ガンにおかされていても、鬱でも、放射能に汚染されていても同じヒトです。絶頂期のスポーツ選手でもバレーダンサーでも同じです。今生まれたばかりの赤ちゃんでも、もうじき亡くなる方も同じ。
ブルースでしょう。異国のことを思わなくても、奄美・沖縄・アイヌの歌・踊りはブルースです。奄美・沖縄・アイヌを想像しなくても、自分の身体の中にそれは反応できるものとして息づいています。共鳴・響きを共振する準備はできています。
岩下さんは、余計なものをできるかぎり排除しています。贅肉も色も髪の毛も削ぎ落とし、追いつめています。その追いつめの先には自由・平等・平和が見えます。自由・平等・平和。恥ずかしがってはイケマセン。いつも危機にさらされています。手にしたことはないのです。ココロにはありつづけます、それをうたでおどりで触れたいのです。