第2の誕生日セッション

DUOwith永武幹子さん@クールジョジョ

クールジョジョでのDUO終了しました。(第2の誕生日セッション・手術1周年)

ユーラシアンエコーズ第2章に出演してくださった韓国のダンサー南貞鎬さんや箏カルテット螺鈿隊から小林真由子さん・山野安珠美さん、他にも懐かしい顔が客席のあちこちに。

あらためて気がついたのは、今この時間も同じ手術をしている方が何人もいらっしゃるということでした。成功の人もそうでない人も。

あの日、早朝手術室棟へむかう患者が数名、付き添いの家族が各2〜3名で手術室のある階へ集合、まるで出征するような雰囲気でした。しかし初めてのことなのに、毎日の決まり事のように決められたとおりに十分納得しているがごとくに全員が行動していました。

今この時間に西日本では暴風雨に襲われている地域も多く、さらに世界に目を転じれば、戦争・飢餓さらには結婚・出産の方も多くいらっしゃいます。ICUでの一晩目は、同部屋での緊急手術が相次ぎ、阿鼻叫喚、実際、この世かあの世か、私かあなたか、区別がありませんでした。

そんな1周年ライブにあたって思い起こすのは太田省吾さんのピナ・バウシュ評です。「肯定」の文脈で考え行動することを説いていました。とかく、否定の文脈・こうじゃないんだ!というところから考えたり、行動したりすることが進歩的・文化的なことと捉えられがちです。日本は特にそういう傾向もあり、私もそういう傾向の人生でした。信じるために疑う、として。

それだけ既成の文化や伝統 縦社会が強くかつ多くの人々は貧しく、その分保守の力が暗黙のうちに認められて来たのでしょう。それに対抗するにはNON!否定、破壊。そしてその模倣。

さてさて、こうやって命を拾ってもらった私としては「肯定」しかありえません。否定してから進んでいく余裕などないのです。

何をさておき、人生肯定。これが基本になります。音楽?肯定です。肯定は否定を含み大きく進みます。人の行為としての音楽肯定です。ジャズ?肯定です。アメリカ黒人の音楽、肯定です。なぜ今・ここ、21世紀の本八幡でモンク?エリントン?肯定です。ナカタニボウ、肯定です。ポップス松脂、肯定です。

カレンダーを戻せば二年前の7月8日は、友人が還暦ソロコンサートをしてくれていました。そこで音楽的には完全に振出しに戻されていました。音が証明しています。CD「TRAVESSIA」。そしてその後、2年の病気で身体も振出し(だと良いのですが・・)、と解釈します。ハイ、全肯定。

第2の誕生日ができ、ケーキに花束、ちょっと申し訳ございませんです。ありがとうございました!

幹子さんは素直に自分に向き合い、ごまかさず、悩みつつも、溌剌と演奏しました。立派でした。モンク、エリントンという巨大なリファレンスに向かっていることの意味。モンク、エリントンの曲を「自由に」「自分なりに」演奏するということはどういうことなのか。

規制の中で「自由」を装うことは楽です。その「自由」は自分のちっぽけな限界としてすぐに跳ね返ってきます。私はピアソラのカバーをやった時にずいぶん考えました。ますますの発展を期待していますよ〜。