タンゴ・インプロ・フリー・自由・音楽

タンゴ・インプロ・アフリカ・音楽

いろいろな想いの交錯したライブでした。
並木恵さんの葬儀・告別式でしたが、私は副作用が強く動けず、LIVEで演奏する気力をキープするために欠席を余儀なくされました。私の音楽人生にとってきっかけになる恩人でした。

彼は職業を持ちながらバンドネオン奏者としてシエテ・デ・オロ楽団で演奏していました。音楽を広く深く愛していた(ため?)か、既存の音楽だけでは満足せず、即興・フリージャズのライブに通っていて、チェロの翠川敬基さんと知り合いになりました。

ギル・エバンスやジャコ・パストリアスが亡くなり、ジャズが終わった、と盛んに言われていたころです。そこで注目されてきたのがボブ・マーリーのレゲエだったりサムルノリの韓国打楽器音楽など「ワールドミュージック」でした。

シエテがプグリエーセのコピーを始め、(それがどんな意味か、どんなに大変だったか・・)コピー譜を、いまやピアソラ研究家として第一人者になった斎藤充正さんに依頼。彼自身もバンドネオン奏者として参加。翠川敬基さんも引っ張り込み、ブエノスアイレス公演(プグリエーセとの共演もあり、御前演奏と言われていました。)の準備中に、以前の投稿に書いたようにコントラバホ奏者が急遽不参加になり、翠川敬基さんと当時共演していた私が呼ばれたのです。シエテは潤沢な資金があり、カサ・デル・タンゴにピアノを寄贈したり、プグリエーセ来日の時は、合同コンサートを主催、楽団員を来日させて指導してもらったりしていました。

実際に彼らの演奏に接すると、バンドネオンのリズム奏法は高次倍音のつまったノイズ、プグリエーセの左手は拳骨で低音部を打つ「ジュンバ」という極限の2ビートで、70年代のフリージャズやロックの叫びと拮抗する、あるいは凌駕していたのではないかと思わせました。恵さんや充正さんが惚れ込む理由が分かりましたし、ピアソラがキャリア最終段階での曲のリズムにジュンバを多用していたのも理解・納得でした。

当時私は高柳昌行さんとデュオで演奏させていただいていて、世界中の音楽に精通していた彼がタンゴをこよなく愛していたので、私は彼をシエテに紹介しました。オスワルド・レケーナさんが来日していたときに我が家に来てもらいヤヒロトモヒロさんに通訳してもらってタンゴ・フォルクローレの講義を高柳さんと受けました。その時レケーナさんが強調していたのが「音楽に関わる者としての矜恃と誇り」「タンゴ・フォルクローレを共に研究すること」「アフリカの影響」でした。

高柳さんがシエテの練習に通う時の運転をしていたのが主に田辺義博さん。長年高柳さんにジャズギターを習っていました。その彼が、練習風景をみて一念発起して、タンゴバンドネオンをやる決意をしたのです。そしてシエテに加入、ブエノスアイレス留学を何回か経験。その頃のことは、私が脱退した後ですのであまり詳しくは知りません。

ともかく、田辺さんが本気で取り組んでいるのを知り、驚きました。そんな彼を誘って劇団「太虛」(TAO)の「白鬚のリア」第1部では、彼のバンドネオン、佐藤道弘さんの津軽三味線をお誘いし、「TETSU PLAYS PIAZZOLLA」では録音に参加してもらい、その後彼のバンドにも助っ人で何回か演奏、金沢も函館もいきました。彼のリーダーCD録音にも参加。

その彼が、私と同病で昨年逝去した報には愕然としました。

そして、彼のパートナー(俳優座の女優さん)が昨日のライブに来てくれました。何という偶然でしょうか。
彼女とは俳優座でまだ井上ひさしさん存命中「憲法九条の会」でパフォーマンスをしたことも、ボルヘス朗読会もありました。その彼女が今、喜多直毅さんと朗読の会を頻繁にしていると聞き驚き、さらに直毅さんは前日に古典タンゴの新トリオを旗揚げ、そして初共演の外山さんはアフリカから深く考えを進めて現在に至っています。

外山さんとリズムを作っているととても自然で楽です。マラカイ・フェイバースが近しく感じました。

荒れ果てたアフリカの村で活き活きとすばらしい音楽が残っているという話、ブラジルでは音楽くらい良くないとやっていられないのよ、という翁長巳酉さんの話、結局、「残念ながら、これから日本はどんどん悪くなっていくでしょう。そんな中で何とか音楽・ダンス・美術・詩などなどは良いものを創っていきたいですね〜」というような楽屋話でした。

タンゴ・アフリカ・フリーが錯綜し、去って行くもの、残されたもの、生きながらえたものが音楽によって繋がりました。聴衆も演者もライブハウススタッフもなにかにすがるように繋がっています。

丁寧に生きる。とりあえず、ゆっくり息をして、ゆっくり食べ、他者を思いやり、自然を思い、言葉を選んで会話して・・・