いま・ここ・わたし後記

いま・ここ・わたし後記
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普段、日常に流されているときは「今」も「ここ」も「私」も存在しません。流れの中で立ち止まってみたときに、初めて発生するのです。
その時、身の回りには微かにノイズが響いています。
「今・ここ・私」とは、「今」しかできない、「ここ」でしかできない、「私」にしか出来ないことを極めていき、究極的には「今」でもない、「ここ」でもない、「私」でもないものを目指すことになるのです。
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と言うことをよく考えます。先日の「いずるば」での皆藤千香子プロデュース即興セッションもそのタイトルでやりました。

よくよく考えると、「流れる」とは日常生きることで、「立ち止まる」とは「死」について考えること memento mori なのかもしれません。止まることではありません。止まることは死そのもの。

死を思い、意識し、精一杯生きることが「いま・ここ・わたし」の真の目的。

「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という土方巽のコトバが思い起こされます。表現とは、生を客体化させる・時間の流れを止める・当たり前を疑うことと考えると、そういうことになるのか。

こうやってみたい、ああやりたい、ということの実現(自己表現)では決して足りません。そんなことをあっと言う間に越えたものしか伝わらない。アール・ブリュ(生の芸術)が感覚に迫ってくるのは、こうやりたいけど出来ない、ああやりたいけどこうなってしまった、という直裁回路だからではないか。即興という方法が有効な理由でしょう。人の思惑を排除したものの真の力。人籟より地籟そして天籟。

「死を思う」なんて、縁起でも無いと思われるかもしれませんが、大病をしたり、あわやという思いをしたり、事件・事故にあったり、戦争に連れて行かれたりすると急にやってきます。生と死は地続きです。避け続けることはできません。人は誰しも死ぬのです。この世では、死が唯一確かなことという意味で「真」という漢字が作られた(白川静)のですから。

大事に行き(生き・活き)ましょう!まず息を大事にする。息は自の心。