インクルーシブ

インクルーシブという言葉を自信を持って使えるほどの知識も知見もありません。極簡単に言えば、障がいを持った人達と一緒に仕事をし、一緒に過ごすことです。

日本のなかではそれなりにいろいろな事情があることでしょうし、現実の教育現場でも学会でも話題なのでしょう。

「暖かく包み込む」「みんなのため」という意味で私は理解し、使いたい言葉です。インクルーシブの方が仕事の業績も上がり、職場の雰囲気も良くなるという統計もでています。統計は統計ですからこういう話題の時にはそれほど役に立たないかもしれません。

昨日、このところの寒さのお蔭で満開の桜の中、社会福祉法人「新生会」(所謂老人ホーム・群馬県榛名)で、矢萩竜太郎さんとデュオ1時間をしてきました。

私にとって、貴重で尊敬し得がたい共演者である矢萩竜太郎さんについて紹介するとき、「ダウン症のダンサー」、庄﨑隆志さんについて「聾の俳優・ダンサー」と「〜の」と付けるか付けないかで悩んだことがありますし、現在も使い分けたりしています。

私にしても何十年も、ダウンの人、自閉症の人、聾、盲の人達にふれる事がほとんどなく過ごしてきました。庄崎さんと共演するようになっても彼の障がいのことを何と呼んで良いのかさえわかりませんでした。

「耳の不自由な人」「聴覚障害者」「聾唖者」・・・。ご本人曰く「聾・ろう」という言葉には誇りを持っているということで(龍・タツノオトシゴは海に入ると耳以外の感覚で聴くことができる。)

私自身の無知もありますが、共演者という関わり合いの私でさえそうなのですから日本社会が「普通」と違う人達を「エクスクルーシブ(排除)」しているということでしょう。

今、私が癌を持っているということで私の呼び方も「癌闘病中」「癌にもかかわらず」とか言われます。自分が言われる身になると「〜の」と形容詞を付けられる感覚も多少理解出来るようになりました。(私は何と呼ばれようと構いません。病気だけれど病人ではないと思っています。)

昨日の竜太郎さんのダンスはそれはそれはすばらしいものでした。多くは施設入居者(一般の方も多くいらっしゃいました。)で老後を過ごしていらっしゃいますが、その場の人全員が心動かされたようでした。私自身が動かされ、何か大切なものを思い出し、何か新たなものに向かう気持ちを呼び起こし、その場に居た人と共有する暖かな気持ちを実感しました。

竜太郎十番勝負!(DVD「ダンスとであって」)の最後の地ドルトムントのフェスティバルはインクルーシブフェスという名前でした。そこでは聾のパーカッション エヴリン・グレーニーさんも演奏してました。(フレッド・フリスさんとのインプロデュオで有名ですね)。

演技後、自身で感動して突っ伏して泣いてしばらくの間、起き上がれなかった竜太郎さんでした。(私は「汚れちまって」いて彼のようにすることはできません。)

表現ということを明らかに越えていました。

この1時間でどれだけ世の中を豊かにしたか!計ることは出来ませんが、こういう豊かな気持ちの総量で世の中は変わる。