リサイタル用の選曲をしていると

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選曲していると・・・

来し方をふり返り、行く末を占うべくリサイタルの選曲をするといろいろと思い出さざるをえません。若い時の甘酸っぱくむせる香りと共に。

まず、人前での演奏と言うことになると、初台の「騒」が大きな切っ掛けでした。土橋恵美子(ペンネームは騒恵美子になっています。・・そう呼んだこともなく、呼ばれていたことも知らない私にはちょっと違和感。)さんの本「ライブ・アット騒(GAYA)」(DU BOOKS)があります。自宅が幡ヶ谷にあったためベースを担いでも気軽に行ける距離でした。時はまだ冷戦時代。裏手にタス通信があって大きなレーダーやアンテナが張り巡らされ、永山則夫が捕まった代々木警察の近くです。今の人には、新国立劇場の所と言えば分かりやすいでしょう。

その少し前は、そこには、工業試験場があり、東京オリンピックを契機に高速新宿線が通り、タルコフスキーがソラリスで未来都市の撮影に使ったあたりです。高校2年、何年かぶりで東京へ戻り、広大附属高校(溝入敬三さんと同級)から都立戸山高校へ転入。その時の友人が隣の町笹塚に住んでいた宮本新さん(劇作家の宮本研さんのご子息)で、彼がピアノを弾いて私がベースを弾いて遊んでいました。研さんが文学座の脚本を書く(田中正造や大杉栄や桃中軒雲右衛門など)と同時に、ラジオドラマも書いていてナット・ヘントフの「ジャズ・カントリー」をラジオドラマにしていました。そんな関係もあり、ミンガス、モンク、オーネット、エリントン、ドルフィーなどがアイドルでした。

新宿ではジャズ喫茶が林立、まだ街がワサワサしていました。青いゴージャスな袋のOZAWA、道をわたったところに「トガワ」、などのレコード屋を行ったり来たり、売ったり買ったりでしたね。買えないレコードはジャズ喫茶で聴くわけです。ほとんどの情報が手に入る今とは大いに違います。極東の島国の黄色人種高校生がニューヨークの黒人音楽に惹かれるというハイコントラストです。そう言えば、東京オリンピックの時に陸上の黒人選手が表彰台で星条旗に拳を挙げていましたし、モスクワオリンピックは当たり前のように日本はボイコットしていました。そんな時代です。

音を出せる練習場を探していて、ほど近い初台に画廊喫茶として「騒」があり新クンが見つけてきたのです。新クンは面白い古本屋、本の読める喫茶店を見つける独特の才がありました。阿部薫が「騒」を拠点にしていた時期です。また、近所に住む、つのだ★ひろさんの影響でロックも当たり前のように流れていました。今言われるようなジャズやフリーに拘った店ではありませんでした。スピーカーのリファレンスはセシルテイラーの「フライフライフライフライ」とマッコイタイナーの「エコーズオブアフレンド」だったっけ。そこで演奏していたのが故板倉克行さん、宇梶昌二さん、八王子アローンが閉店して演奏場を求めていた梅津和時さん・原田依幸さんたちでした。後に「生活向上委員会」で大ブレークする直前です。板倉さんが六本木・青山あたりでジャズピアノライブを流行らせていたと聞きました。まだそんな時代でもあります。

お客さんは映画関係者や近所に住む優しき人たち。リハーサルで借りていたのですが、ある時、エミさんが「あなたたち、こんど夜、演奏してみない?」と言ってくれてドキドキしながら演奏したのが始まりです。時は、ちょうど阿部薫さんが亡くなった翌月。メンバーは宮本新さん、藤川さん(フェダイン川下さんの友人)、岩本次郎さん、と私でした。その後、長髪の梅津さんや原田さん、板倉さん、宇梶さんと演奏させてもらったり、溝入敬三さんとベースデュオをやったり、エミさんの体調がすぐれないときは店番をやったり(お客様がいないと志ん生をかけたり・・・)求めに応じて「焼きうどん」を作ったりまさに青春のホームでした。アルコールを覚え始めたのもこの頃。学生の頃はほとんど呑んでなかった。

ある時、鈴木いずみさんと隣席になり、凄い勢いで一緒に呑んで、話に翻弄され、通過儀礼のように急性アルコール中毒になり、発熱・重度の口内炎で口がきけなくなり、食事も出来なくなり、近所の玉井病院に入院なんてこともありました。入院先からエアジンのライブに行きました(天野主税・森順治さんと乃トリオ、その後入院先からエアジンへ演奏にもう1回行きました。矢萩竜太郎さんとの初回でした。)

エミさんは正真正銘のエスパーで、予知能力があり、UFOを普通に見たりしていました。女子美卒でした。オーラを放っているのか、ともかく目立っていて、子供の頃は、木村伊兵衛さんがモデルになってくれ、と所望したそうです。いまや人間国宝の小三治師匠とも友人。「騒」の名前もピカソの洗濯船由来だとか。騒が無くなった後は、良く当たる占い師として人気があったとのことです。画家大成瓢吉さんもよく聴きに来てくれました。

私は、遅く楽器を始め、「根性で」マスターしてやろうと独自の方法を開発し無理な練習をしていたため、あっと言う間に腱鞘炎になってしまいました。エミさんは呼吸の良いレコードをかけながら私の患部をそっとさわり患部に呼吸をさせるという治療をしてくれました。(彗星パルティータがよく効きました。)

音楽的に言うとジャズの4ビートやロックの8ビートが自分の中に無いことをすでに気がついていました。ともかく上手く成りたい一心で練習ばかりしていました。溝入さんから井野さんを紹介され布田の専門学校へ行ったりもしました。(不思議なことに、タンゴやジャズの2ビート、民族音楽系の16ビートは身近でした。)

そんなこんなですので、自分の音楽の居場所が分からない状態がずっと続いていました。だからこそ、だからこそ、だかれこそ・・エミさんにはもう1回会って、報告したりゆっくり話をしたいとず〜っと思ってチャンスをうかがっていましたが、訃報。こんなに悔しかったことはありませんでした。(今だって、私の音楽の居場所がないことは同じかも知れません。居場所が無いのが私の居場所?)

エアジンの梅本実さんが、ケルンから帰ってきてエアジンを引き継ぐというのもこのころです。日本で面白いことをやっているところは無いか?とリサーチしていました。「騒」の関係から、エアジンにも呼ばれて出演し始めました。エアジンでは、フリーは嫌われていたのに徐々に梅本さんが浸透させて行ったのです。今や昔ですね。梅本さんに誘われてストラビンスキーやサンサーンスのクラシックアンサンブルを一流のミュージシャンとやったのもその頃の甘く苦い想い出です。たいへん勉強になりました。エンヤレーベルのホルストウエーバーさんも騒をとても気に入ってましたね。

卒業、「騒」閉店、結婚、慌ただしい日々でした。結婚式では梅本さんがトランペットで結婚行進曲を吹く、板倉さんピアノを弾く、菊地隆さんが打楽器、溝入さんも弾く、新郎新婦の後ろには大成瓢吉さんの大きな絵画が屏風の代わりに立ててありました。その結婚式のドサクサでペルマンの楽器を手に入れたのでした。

「騒」が無くなっても私の音楽熱は冷めずにいました。富樫雅彦さん、高柳昌行さんのグループに入ったのもその頃です。高柳さんは井野さんの紹介で、富樫さんは自分でデモテープを作って売り込んだ!のです。何という自信でしょう。若かったのです。

当時、ジャズミュージシャンを目指す者はピットイン朝の部、昼の部、夜の部と進んで行くのが普通でした。その間に友人も仲間も先輩も後輩もでき、運転も道も挨拶も覚え、小「社会」を経験することができるはずでしたが、私は初めからジャズ界の頂点さえもつきぬけたような2人と演奏していたのですから、礼儀も知らなければ、友人も仲間もいませんでした。40年近くやっているのに、今でも業界内に知り合いが極端に少ないのもそのためです。奇しくもおふたりとも病後・事故後でしたが、ジャズのど真ん中に居たために、ジャズから遠くへ行きたがっているようでした。60年~70年代の熱い時代、聴衆も社会も経済も手応えがあり、音楽・美術・政治・ダンス・文学全てが関係を持っていました。

今をときめく大友良英さんが高柳さんの付き人・運転手をしていましたし、殿山泰司がお客さんで来ていたり、公私ともに富樫さんの応援をしていた大橋さんは後に自死。井野さんはヨーロッパで活躍。みんな熱く生きていました。梅津さんが「テッちゃんエレベ弾く?」と聞いてきたのもその頃です。もちろん弾けません。その直後に作ったのがドクトル梅津バンドでした。イエスと言っていたらその後の私はどうなっていたのでしょうね。

そんな最初期に作った曲が「月の壺」です。この曲は7月8日のリサイタルで演奏することになりそうです。幾多の想い出のある曲です。

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