帰国して3週間、4つライブを何とかやりとげ少々ホッとしています。
身体は元に戻りつつあります。(きっと)
2ヶ月間のヨーロッパでのデュオの成果を報告、更なる未来を予見したBarBerFujiでの直毅さんとのデュオ。2回目となる木村裕さんとのデュオ(@公園通りクラシックス)では意外なことに、コトバを排除。CDリリース記念LIVEとなるかみむら泰一さんとの2デイズライブ(@キッドアイラックホール、Candy)はドラマのようでした。
演奏・運転を終えて帰宅、ワインか焼酎を身体に染みこませるとそのまま眠りこけてしまいました。確かに体力は衰えていますね。しかし、どのライブも精一杯やり、しかも、共演者が最大限の集中力で「発見」をいくつも刻みつけていました。それは、一方通行のはずはなく、私と、そして、聴衆・スタッフとの曼荼羅方向の「発見」です。ヒトは、「発見」を栄養にして人生を生きている。そう思うくらい充実した気持ちでした。
音楽・美術・詩とさまざまなジャンルで活躍する木村裕(ゆたか)さんは、知る人にはよく知られていて、美術館で瀧口修造展があると、武満作品を弾くよう請われたり、自らの美術作品をヨーロッパ各国へ持って行ったりしています。この日、わたしは自らのコトバを封印しました。(前回は私が吉田一穂、裕さんがギリシャ詩人リッツオスの朗読をしました。)彼はきっと自作の詩を朗読しながらピアノを弾くものだと思っていたら、彼もコトバを封印するではありませんか。失われた「ンラス」は失われたままニヤッと会場の隅に居たものと思われます。
泰一さんとの2日間も2日かけて味わえる音楽に満ちていました。初日の緊張の中で押さえられた感情(音)が、2日目に爆発していました。感情とはヒトが自ら押さえられるものではないのでしょう。押さえたと思っていても、それがそのまま音になっています。一方、爆発すれば良いというものでも無い。
「音楽」という方法を持っている私たちに与えられた特権かもしれません。Candyというアットホームな雰囲気と、なにより、1日前の演奏が、導火線・起爆剤になっていました。私に(思い切って)声をかけたのが2年前のCandyだったということです。彼にとってこの2年は短く長い年月だったでしょう。
サックスという楽器は主に野外で大きな音で鳴らすために開発され・発展してきた楽器です。マーチや軍楽隊で気持ちを鼓舞させるため、分厚いハーモニーで踊りまくるために使われてきました。
サックスは「朗々と演奏していると主に自分の音しか聞こえなくなるんですよ」と泰一さんは説明します。彼にはそれがガマンならなかった(のでしょう)。ほんのちょっとしたサインや変化を全て、常に、感じたいため、音量を落として(そのためにはマウスピースやリードに人一倍繊細にならねばなりません)みんな同格に「そこに居る」ことに取り組みました。彼のとびきりの「やさしさ」が要求した超難問だったのかもしれません。何もそんな苦労をしなくても良いのに、あるいは、しない方が世の中でうけいれられるのに・・・。その答えも進行形で見つかりつつあるものと見受けられます。
とまれ、人が「化ける」現場に立ち会うのは大変嬉しいことです。それは偶然ではなく、今までの切磋琢磨がある時にカタチを得て出現するだけです。狂おしいほど「願って」「求めて」努力した結果です。
余談ですが、2曲で差し挟んだ「ジャズベース」をCandyの美葉子さんが殊の外お気に召したようで、くすぐったくも嬉しいものでした。(「ソフトリー」と「ロンリーウーマン」)40年以上ジャズ聴取(ライブも録音も)を身を削るように行ってきた人に言われるとちょっと違いますね。