何かお忘れ物はございませぬか?

139 IMG_3054 DSC_0306 DSC00185

 

何かお忘れ物はございませぬか?

生ガット弦コントラバスはいろいろなトピックを与えてくれます。

そもそも、演奏家はほとんど全員が「うまく」なるべく楽器の習得に努めます。なんのため?「うまい」すなわち素人の人があまりできないことを平気でやることがプロの最低の条件ということが暗黙にあるようです。「うまく」なろうと、膨大な時間、日々努力をしてきたのです。自分の存在理由でもあるのです。

楽器の歴史にしても、大きな音を出そうと努力をしてきました。共鳴弦を張ったりして残響を補強したのも効果的に弦を響かせるためです。

細いスティール弦で、弦高を低くして、チェロのように、あるいはバイオリンのように器用に弾くことの魅力・誘惑は抗しがたいものがあります。ソロ弦(さらに細い)を使ったりもします。それが世の中の趨勢でもあります。ピアノ椅子に座り、ネックを肩に置いて、左手の親指を十分使えるようにする奏法が目下流行中ですし、若い学生たちの憧れでもあります。(ロタウ、ロカートさん達)バイオリン・ヴィオラ・チェロまでが「楽器」でコントラバスは「家具」と呼ばれました。そこから早く「楽器」になりたいのです。

ところがです。プレインガット弦は、「へたに」聞こえてしまうということがあります。特にアルコ(弓)で弾くときは初めのうち特に音が裏返ったりします。いくら音質が良くても、「下手に」聞こえることを何としても避けたい人達はこの段階でプレインガット弦を諦め、金属巻きガット弦、あるいは、シンセティックガット弦(合成ガット弦)、ガット弦に近い音色の弦に替えるか、もともとのスティール弦に戻ります。よく分かります。

そして、共演者・指揮者にとってはガット弦であろうと、スティール弦であろうとあまり気にならず、上手く弾いてくれることを望むのです。そう、コントラバス演奏は音程を正確に取ることさえムズカシイのです。

それに加え、ガット弦は高価。それは日常生活でとても痛い。これだけマイナス要因が揃っているわけです。そんなマイナス要因を上回る動機などは「贅沢」なものであるでしょう。はい、分かります。貴族が使うような高価な楽器で「民衆」のうたを歌うことはどこかに矛盾があります。

生のコントラバスで大きな音を出すには、良い調整をした良い楽器(高価な楽器)が必要になります。それを補うべく、大きな音がでるスティール弦(たとえばスピロコア)が開発され、ピックアップ、マイク、ベースアンプがあるわけです。それでこそ高い楽器の買えない「庶民」の味方なのです。

すべて分かった上で、そういう流れ自体に何か「忘れ物」はないでしょうか?その忘れ物は無くても困りはしませんが、大切なものをもっていないでしょうか?

エンターテイメントとして、神様である「お客様」に十分つたわることのために、マイクを立て、スピーカーを用意して、総てのお客様に同じ音質を伝え、「お客様」の望む音楽を提供する、ことにこだわりすぎてはいないか? そこに隠れた「驕り」はないでしょうか? お客様との金銭授受のみの(横の)関係だけでないものがないか?

お客様に歓んでいただける音楽というのは、幻想あるいは共同幻想かもしれません。それに慣れてしまっているうちに演奏家も聴衆も落ちて行く。

私たちは何もケンカを売るために演奏するのでは決してありません。こうやって生きている、さらには、こうしか生きられないということを伝えたいのかも知れません。伝われば、これ以上の歓びありません。上手い・下手で演奏しているところからはるかに遠いところに居ます。

私は何の因果かシャーマン系の音楽に関わることが多くあります。彼らは超一流のエンターテナーであり、超一流の技術を持っていますが、演奏は上にむかっての「捧げ物」としての要素を決して忘れていません。聴衆の「代わり」に神様へ向かって演奏しているのです。金銭授受に収まりきらないものがあり、逆に言えば、それこそ金銭授受の根本理由かもしれません。

耳をそばだてなければ聞こえない音楽の代表がコントラバス音楽と言っても良いのかもしれません。車で運転中、コントラバスソロの音楽は聞こえません。静寂を要求し、響きの良い空間を要求し、その割には大変不器用な楽器で、和音とメロディを一緒に演奏できず、メロディラインも聞き取りにくいという大変ワガママな楽器(家具)なのです。

その上、ガット弦ですよ、それもプレインガット。これはニッポンの自民党政権下(?)相当ハードルが高いと言わざるを得ません。でも、しかし、それだからこその音もあるし、必要なのではないでしょうか?

わたしはむしろそこに賭けたい。ムズカシイと言われても、訳がわからないと言われても良いのです。そんなこと慣れています。その代わり最大限の努力をし続けたいと思います。分かりやすいことは当然、大切です。小学生にも分かりやすくないと本当に伝わらないということも理解出来ます。私も歌を作ったことでいろいろと経験しました。しかし、「分かりやすい」だけではないはずです。

「考える」とは一語一語、躓く(つまづく)ことだ、と吉田一穂さんは言いました。彼の詩はムズカシイけれど、そうでなくては言えない事に満ちています。尊い事です。

3月11日にリリースするCD「6trio improvisations with Tetsu & Naoki」に沢井一恵さんとのセッションが入っています。その1つで一恵さんは「五絃琴」を演奏しています。これは本当に小さな音です。それだからこその音と示唆に満ちていました。

昨年入手したフライト用のコントラバスは軽くて持ち運びは本当に楽です。ネックを外してタクシーにも普通に乗ることができます。バスだって可能。その便利さを味わうことは、同時にコントラバスにはあの「重さ」「大きさ」が必須なのだと納得することになるのです。

それでこその音があり、それを味わうことができるからこそ、21世紀の現代にまでコントラバスは生きながらえたともいえるのです。

コントラバス音楽はそんな隙間を提供します。普段考えないことを考えるきっかけを提供いたします。実は、音楽の肝なのです。

どうか、味わってください。コントラバスの音色にこだわることが出来ると、共演者にとっても聴衆にとっても音楽をもっともっと楽しむことが出来ます。ベーシストのみなさんも自信と誇りをもって続けようではありませんか・・・

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です