効果?アゲイン

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ドイツではサマータイムが終わり時計の針を1時間戻す日です。今日もくもりで寒い。灰色の空を何日も見続けると春を待ち望む人々の気持ちが少し分かるような気がします。そして「春は約束を守らない」と言った詩人のことも。ドイツは特に服装の色使いが、原色に灰色を混ぜたものばかりなので、街も人々も空も同じグラデーションのようです。最後の紅葉を目立たせるためのように。
 
昨日の話の続きです。
 
アラン・レネ監督の映像作品「夜と霧」はアウシュビッツのドキュメンタリー。映像に、ナチスの礼賛の字幕を付けたらナチス礼賛になり、反対を付ければ反対になる、と言われます。人道的にどんなに酷い映像でも、ナチス礼賛者にとってみると「よくやった、すばらしい」となるわけです。
 
アウシュビッツの音楽と言えばパスカル・キニャール著「音楽への憎しみ」であり、「死の国の音楽隊」。音楽もナチス高官のパーティのためにも使われ、強制労働をさせる行進のためにも使われるのです。
 
フルトベングラー指揮のベルリンフィル、このことも思いあたります。彼の指揮の下で音楽をする歓びは代えがたい魔力があったといいます。たとえそれがヒットラーの誕生日のお祝いであっても。
 
そして「科学」。原水爆を生み、福島の爆発を起こしました。科学自体は進むだけですが、使われ方によって大きく変わるのです。より「効果的」に爆発させるには?より「早く」するためには?あたりまえのように、「効果」が問われ続けてきました。
 
アウシュビッツのガス室でも「より早く・効果的に」行うために研究され、良い成果が得られれば満足して家路へ急ぎ家族団らんを過ごすことだって有ったことでしょう。
 
映像も音楽も科学もそれ自体には是も非も無いのであって、誰が、どう使うかということでしょう。
 
かつて一弦琴の制作から演奏までのワークショップをやった時(@モケラモケラ)に、はじめに「小さい音でも良い、変な音でも良い」ということを強調しました。参加者は自然に「大きく」て「立派な」音を求めてしまうのです。楽器の演奏でも、上達するヒトはどんどん工夫して、効果的に熟達する方法を選びます。「効果」が悪いのでは無く、使うヒトが問題なのです。
 
さらに言えば、ヒトの歴史はどのように効果的に生き延びるかということの戦いの連続であり、負ければ生き延びることができなかったので、暗黙の内に効果的であることを是とし、頭の回転が速いことを是とし、強いことを是としてきたのでしょう。
 
では、そこから客観的になる立場はどうやったら得られるのか?
 
「死」と「詩」かと。両方共「SHI」ですね。
 
「死につつある知人の前で、その演奏ができるか?」を問うことでしょう。
どんな「バカ騒ぎ」でも良いのです。「死」が(すなわち「生」が)支えていさえすれば。
 
それがなければ単なる「暇つぶし」です。いや、やろうと望んでいるのに「できない」ヒトたちのことを考えれば「罪」でもありえます。できるのにやらないのは「怠慢」ではなく「放棄」なのかもしれないのです。
 
ヒトの想像の範囲を超えた「畏れ」に対しても謙虚でいることができるか?を問うことでしょう。
 
ヒトは海を見たり、火を見たりすると知らず知らずに無口になり遠くを観るようになります。
 
個人の考え・体験・一生なんてちっぽけなものに縛られないで、自分の中には「知らない自分」の方が多いのですから謙虚に「畏れ」を感じ、従うことができるか?自分の身体、心、考えを「所有」せずに客観視できるか?
 
かつて効果を追い求め、傍若無人に演奏していたとき「あなたの演奏には祈りが足りません」とキッパリ言われたことがありました。なんだかドキッとして考えました。ありがたいレッスンでした。
 
 
 
そして「コトバ」。
アラン・レネのフィルムの例で言いましたが、コトバによって判断が全く違うことになりえます。本当に重要なのです。日常の事象を説明するコトバではなく、純度の高い「詩」のコトバが必要なのです。嘘をつくコトバではなく、すべての基準となりうるコトバ。
 
コトバと音楽が出会い、「うた」が生まれます。
その試みが古今東西で営々と行われてきました。
 
(文化系の学部を無くし、「経済・経済・経済」と叫ぶリーダーを思い起こしてしまいました。)
 
「うたをさがしてトリオ」(さとうじゅんこ・喜多直毅・徹)の1つのピークがジャン・サスポータスを迎えた「祈りの音楽」だったのは偶然ではないでしょう。歌と踊りと願いと祈り。
 
 
 
年末年始の「うたをさがしてトリオ」の旅は、「コトバ・詩」をさがす旅でもあります。

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