歌・詠・唱

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2014年は、オペリータ「うたをさがして」で始まり(1月7日初日)、さとうじゅんこ座長公演(12月24日)で終わることになります。

歌を聴くことさえ嫌いだった青年期に比べると何という違いでしょう。最近のうたの流れの直接のきっかけは東日本大震災+原発爆発でしたが、長年聴き続けてきたブラジル音楽、歌と踊りを大切にする世界中の音楽(韓国・沖縄・アルゼンチンをはじめ全世界中ですね。うたを持たない音楽は滅多に無いわけですし。)にだんだんと自分自身が引き寄せられてきた結果なのだと思います。

さとうじゅんこさんが「歌」と言わず「うた」という表記を好むのも、私たちが「うたをさがしてトリオ」、千恵さんがオペリータ「うたをさがして」としたのも無意識に理由があるようです。

私の常套手段で白川静さんに聞ききます。

「歌」の「可」は、神への祈りの文である祝詞を入れる器を木の枝で殴ち、その祈りが実現することを神に迫り、その時、祈る声にリズムを付けて歌うように祈ったのだろう、という説。なるほど。神に「迫る」というのがなんだかスゴイです。
「詠う」が長くのばす歌い方、「謡う」は神にねだるような歌い方、「唱う」はみなで揃って勢いよく合唱する、そうです。なるほど、なるほど。

「歌」の本来の意味を聞いてとっさに連想した詩があります。ずっと謎でしたが、印象的で忘れられないパウル・ツエランの詩「テネブレ」です。
テネブレ

近くにいます 私たちは、主よ
近くに そし摑まえられるほどに

もうすでに摑まえられています、主よ
互いにしがみついて、まるで
私たちのうちのどの身体も
あなたの身体であるかのように、主よ

祈りなさい、主よ
私たちに向かって祈りなさい。
私たちは近くにいます

風で曲げられたまま 私たちは行きました
私たちは行きました
窪地や火口へ身をかがめるために

水飼い場に私たちはいきました、主よ。

血がありました、ありました。
あなたが流したものが、主よ

それは光っていました

それは私たちの目のかなに あなたの像を投げました、主よ
目と口はこんなにうつろに開いています 主よ
私たちは飲みました 主よ
その血と その血の中にあったあなたの像を 主よ

祈りなさい、主よ
私たちは近くにいます
イラスト:はまむらゆう
「白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい」小山鉄郎 新潮文庫より

 

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