訳あってフラメンコを観・聴きしています。まず気がつくのが韓国伝統音楽との近似。ユーラシア大陸の西と東の突端の半島ですね。
1:3と2を組み合わせたリズムで、合わせて12になるものが多い。
2:一つ一つの音楽よりもその音楽の持つリズムで表す。曲名という考えでは無く、フラメンコならアグリアス・シギリージャス・セビジャーナス、韓国伝統音楽ではクッコリ・オンモリ・フルリムなど。演奏者同士で「次何やる?」と言う場合「アグリアス」「クッコリ」で分かってしまうわけです。
3:譜面(12音で何でも片付けようとする西洋音楽の常套手段)をもたない。西洋楽器の共演者は初めのうちは大変です。ギタリストの左手が見える位置で和音を想像するだけ。
4:しかめ面がほとんど。「泣き」が大事な要素。
5:電気・電子楽器を導入しない(できない)。あくまで生身の「人間のすること」ということが大事。それは外部からの「効果」に期待するよりは、人間の限界を楽しむ(叫ぶ)方が良いという印象。手足で、いくら早くリズムを取ろうが、精一杯大きな声で歌おうが、限界はあります。そこが大事なのです。
トニー・ガトリフ監督「ヴェルティージュ・めまい」とカルロス・サウラ監督「フラメンコ・フラメンコ」は好対照です。ガトリフ監督は生身の人間の行為を撮り、サウラ監督は「効果」をねらい世界中で受けることを目指しています。
6:踊り・歌が何より大事。楽器演奏は伴奏が基本。踊りが盛んな音楽で特徴的なのは「前拍」が強いということのようです。フラメンコは12拍子の1からはじめないで12から始めるものさえあります。韓国では銅鑼で1拍目を誘います。
7:人間(肉体)のリアリティを、フラメンコなら「ドゥエンデ」、韓国伝統音楽なら「恨」として聴衆と共有する。人間のギリギリを表す時にセクシャルになることは当然あるでしょう。
8:被差別側の芸能の要素が強い。いまでこそ、国の誇るべき芸術として認識されていますが、ルーツはロマ、ムソクにあり、それは現在も変わらない。魅力のある本当の力は被差別側にあるのでしょう。知的な日本の女性がカルチャーセンターのフラメンコ教室に通い、もつ鍋やフライドチキンが愛される所以です。被差別とシャーマンの関係もあるでしょう。鍛冶屋のフラメンコ、金属製楽器をあやつる韓国シャーマン。
(後半は、タンゴにも共通するような気がします。)
イベリア半島・朝鮮半島はどこかでつながるのでしょうか?ガトリフ監督がロマの流れとしてインドからイベリア半島への流れを強調しています。(「ラッチョ・ドローム」)。私は3月にマレーシャーマンと共演した経験でインド~マレー半島への音楽の流れを実感しました。悪友ザイ・クーニンはマレー音楽を演奏するときに韓国のチャンゴを使っています。もしかしたらラッチョ・ドロームのイーストサイドがあるのでは?と夢想してしまいます。