効果とは?
本来のものがあってそれをよりよく伝えるために「効果」はあったはずです。
バルタバスのジンガロの映像を観ていてこんな想像をしました。
あるチベット僧の声の低音がすばらしい。それをより「効果的」に伝えたいということで、マイクを使います。良いマイクがいいですね。目立たないようにピンマイクを使いましょう。アンプはこれ、スピーカーはこれ、ケーブルはこれでしょう。もちろん電源は気をつけてキレイなものを。そして、エコライジング(音質を周波数によって変化させる)はこう、リバーブやエコーはこう、パーン(どこから音が出ているかをはっきりさせる)はこう、さらに秘密のイフェクターを使いましょう、その方が良いでしょう、会場すみずみまで響き渡るのです。オクターブ下の音をつくりだして付け加えると凄くなるよ、いや2オクターブ下の音を付け足した方が良い、などと最新テクノロジーを使い準備を整えます。
えっ、今日彼は調子悪いって?声が出ないって言っているよ。しようが無いな~。そうだ、昨日サンプリングしておいた彼の声があるからそれを使おう。その方がこっちは楽だし、いろいろな実験ができる、生よりもっともっと「効果的」にできるよ。とかなんとかで、もの凄く「効果的」な音響がつくられ、刺激を求めているお客様は大満足。(ジンガロ自体が非常に「効果」をねらった見世物なのでこんなうがったことを思いついたのかも知れません。)
「効果的」のもう一面は、より少ないエネルギー・時間でより多くの結果を生むということ。その法則は現代社会に置いて暗黙のうちに当然とされています。早く仕上げるのが「仕事ができる」、のそのそ遅れるのはダメ。私のトラウマになっているのは、小学校の時に行かされた下高井戸の塾の先生の「きれいに、早く、きれいに、早く、きれいに、早く」の連呼です。いまでも耳元で聞こえます。恐怖。
昨今のコンサートの大音量は、ほとんど耐えられません。突発性難聴でつらいという理由もありますが、それにしても大きすぎる。暴力的な大音量は、「この音に耐えている私の肉体を担保にしているんだ、ギリギリまで、イヤ、それを越えて行くぜ、ついてこいよ!」と言っているようです。それは、胎内にいた時の母親の血流音を無意識に思い出させるのかも知れません。胎児の身体の大きさから言うととんでもない大音量のノイズです。歪んでうねって乱調の極。美は乱調にあり、といっても度が過ぎます。あるいは、度が過ぎることが美なのでしょうか?心音が規則的な胎児は健康に問題があると言います。
あるいは、「やめろ!」「殺すな!」の声もケンカも、銃声さえも聞こえないほどの音量のアナーキーな無法地帯に対する憧れなのでしょうか。大音量の中でなにもかにも忘れて踊りまくれ!叫びまくれ!祭りのガス抜き?ひとりひとりしっかりしなさい、自立した社会人なのですよ、いい大人でしょ?というプレッシャーに対する反抗?
「効果」に対する対応は、「安いものを買う」ことへの信仰あるいは、得することに対する信仰にどこか似ている気がします。何が本当に必要なのかがわからなくなります。「だって、面白いんだもの」「だって、安いんだもの」「だって、お得なんだもの」という金科玉条の影で忘れ去られていくもの、死んでいくもの、いや、抹殺されるものへの想像力こそが必要です。
楽器の特殊奏法に関しても同様。特殊奏法が効果を狙っているだけだと、そこには発見はありません。その意識でやっているとその時間はすべて惰性ですし犠牲です。「お客様が喜ぶから」という理由で特殊な音をだして効果を狙うのは、何にも成りません。
今こそ、演奏家は、音量を下げ、効果音を減らし、沈黙と抗える方向を忘れてはいけないでしょう。