「聴く」ことは「待つ」ことで「信じること」というのを座右の銘としています。なぜならなかなかできないからです。
「しゃべる」と言うことは、自分の口を通じてでてくる言葉を聴くこと、という説を聞いたことがあります。それを音楽に当てはめると、「演奏する」というのは、楽器と自分の身体を通じてでてくる音を聴くことに他なりません。人まねをするなど音と最も遠い作業だと言えます。
あくまでも自分が音を「出す」のでは無く、音を「聴く」わけです。自分が何かを表現しようというところから何か違ってきてしまうわけです。吉田一穂さんは「考えるとは、ひとことひとこと躓く(つまずく)こと」と言いました。音も1音1音つまずかねばなりますまい。
自分を通って音が出やすくしてあげること、その音を聞くことにストレスの無い状態を保つことが日常の作業になります。音質が大事ということもその流れで考えられます。
そして即興演奏という方法は、そういう作業に大変都合がよろしい。即興演奏の大きな利点でしょう。作曲演奏の場合でも視点を変えると同じだと思いますし、人生でおきていることは大なり小なり同じ事でしょう。
音はこわいもので、嘘をついたら自分が苦しむことになります。いつも参考にしている白川静さんの説だと「音」の字は、器に水を張って神に伺いを立てる、静かに待っていると水の表面が震えて答えてくれる、嘘をつくと針で罰せられる、わけです。私も随分音に怒られ罰せられました。
ただ「聴け」と言われても、それだけでもムズカシイ。カクテルパーティ効果といって人は自分の都合の良いことしか聞こえない、という話もあります。「自分」という範疇を乗り越えるためにやっているのですから「自分」に囚われてしまったら元も子もありません。
日本語では「きく」は香りや酒にも、効果のほどにも使います。見ること、視ること、観ることと同様に、焦点を合わさずに聴くこと、これが大事になります。身体全体を受信装置にして輪郭を消す。とりあえず好みを越えなければなりますまい。好き・嫌いを言っていてはイケマセン。いわゆる「無」になって観る、聴く。無になると何も無くなってしまうかというと、全く逆です。無になるのはちっぽけな自分の人生だけ。その下に寿限無な、無量大数な、那由多な、海砂利水魚な、五劫のすり切りな記憶があります。そことのアクセスができるのですから目出度いことです。
信じること、何を?
これも簡単ではありません。ありきたりの普段の「自分」を信じるのでは反対になってしまいます。身につけた技術を使わないで、大丈夫でしょうか?ハイ、大丈夫と信じるのです。身を投げ出してしまって、知らない自分を信じるのです。大丈夫です。「独りで立つ」ことができれば大丈夫。矛盾した言い方になりますが、身を投げ出した時にこそ、普段に精一杯やってきたことが、活きる。多重人格のように急に他人になるのではなく、知らないけど懐かしいあの「彼」「彼女」がやってくる。