即興に関するよしなしごと(続き)

以前、http://travessia.petit.cc/muscat1c/

に書いていたものの続きです。
「みなさんと一緒に『聴く』ことができて大変嬉しいです。」とレ・クアン・ニンさんはコンサート後のインタビューで答えました。愛知県西尾市の旧近衛邸の茶室でした。
インプロについての本質的な考えがこの中にあります。
インプロの演奏は「表現」するのではなく、「聴く」ことの方が大事ということでしょう。
インプロの演奏というと、ほとんどの場合、始まりの時はだいたい小さな音で、誰が先に出るのか探っているようです。最初の頃は私も「いつも一緒だね。違うアプローチはないの?」と思っていました。同じように始めることが即興と相反するように思っていたからです。
しかしそれ以上に大事な約束ごとがあり、そのためにこういう始まり方をしている、ということが次第にわかってきました。大事な約束ごと、とは?「聴く」ということです。その空間の音を聴き、共演者や聴衆のざわめきや衣擦れを聴き、外の「雑音」を聴く。その独自性はあらゆる演奏技術や演奏工夫を上回るのです。
ええい、面倒だ、とばかりにドンドン演奏を始めてしまうことは、その演奏の最初のデッサンを「表現」し「強制」してしまうことになるわけです。「自己表現」を越えることを大事に思っているからこそ、始めに「旗を立てる」ことには細心の注意が必要なわけです。
また、ヨーロッパのインプロバイザーを見ていると、自分の演奏技術や生き方に対して、精一杯やっているという自信と誇りがあるようです。ものまねや流行りすたり、趣味や教養ではないのです。社会も(ある程度)それを認めているというコモンセンスがありますし。
作曲の方が適していれば、キチンと作曲をする方が良いのです。インプロでも作曲でも無いものは狙うだけムダでしょう。狙って出来るものでは無く、結果としてそうなることもある、という位で良い。
こういうことは日本人・アジア人のほうが得意だったはずです。書の潔さ、焼き物の一回性、作為を粋で無いとする意識、「しどけなさ」、「花は盛りに」、無、間、などいくらでも思い当たります。しかし、現在の演奏家は、クラシックやジャズ経由で演奏家になることが多いため、日ごと夜ごとの演奏生活の中で忘れてしまうのでしょうか。「自己表現」がいつでも暗黙の了解になってしまっています。「良い演奏」をしようとしてしまいます。その「良い」とは何かを長期間、検証していない。
邦楽・雅楽の演奏家の方が「聴く」ことの大事さをより深く認識しているようで、海外のインプロバイザーにより評価される理由がそこにあるのかもしれません。
自分の得意な演奏や、慣れ親しんだ効果的な演奏方法は、ある一定の時間を強要します。自分の人生を賭け、時間、お金をかけて培った技術や情報こそがじゃまになるのでは、と認識するのは大変です。「うまい」「他人にはできない」演奏で自分の独自性を「売る」ことが「プロフェッショナル」、その率を高めることがプロの生き方だということにも反してしまう。良い演奏しよう、良い即興をしよう、と思う心に忍び寄るもの、それに対する強い気持ちが大切でしょう。

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