即興に関するよしなしごと(4)

演劇人・演奏家・アスリート・勝負師がよく使う言葉に、本番の前に「無」になる、ということがあります。無とはゼロになってしまうことでは無いと考えます。今まで生きてきた何年かがゼロになるだけ、前回言及した「トンネル」が消えていくだけで、未知の大きな世界に繋がった状態と考えるのが好きです。では、無になったら何が残るのでしょう。

膨大な記憶の貯蔵庫があると想定してみましょう。その記憶には生物としての記憶がすべて含まれていて、民族・時代も軽々越え、しかも全ての人がシェアしている。

ワークショップなどでお話をするとき、胎内血流音をお聞かせすることがあります。多くの人がじっと聴き入ります。これは全人類が10ヶ月近く聞いてきた音だ、というと遠い記憶を揺さぶられる気がして、そのノイジーな音に愛おしささえ覚えます。

無になるためには、身を投げ出さなければなりません。それには相当な勇気が必要です。その勇気の元は、日頃の鍛錬かもしれません。日頃精一杯やっていればできるかもしれません。隠すことがあってはダメなのかもしれません。それはちょうど、水泳の時の息継ぎに似ています。呼吸ができなくなるのが恐くて、空気を少し残したままだと、うまく空気を吸えません。それが悪循環を起こしてしまう。空気を全部吐き出す勇気があれば、自然に息継ぎができ、泳ぎ続けることができる。

日頃の努力の成果をできるだけ出そうとしても、うまくいかないことがおおいでしょう。勉強したものではしょせん「勝負」できないのかもしれません。一人で立つためには「自分」を出してはいけない、というちょっと矛盾のような状態があります。

自己表現と自己実現の違いと似ています。自分を出そう、という自己表現は、いくらうまくいっても想定している「自分」がそのまま限界となってしまいます。一方、知らない自分が出てきて何かをやっている、というのは初めから想定を越えています。それこそが自己実現。そしてそれこそ発見であり喜びでしょう。自分だと思っていることは、案外、作られたものだったりします。

「痛い」というのは、痛く感じなければ、身体の組織が死んでいくのを予防するためのもの、「熱」がでるのも、そうやって身体を動かさないでいる内に,身体の中で戦いが繰り広げられているからでしょう。

感情だってそうかもしれません。喜怒哀楽、どれだけ自分のものでしょうか?好き嫌いと言ってもそれは「擦り込まれた」ものかもしれません。「だって好きなんだもん」という事に対する疑問。泣くことが、あたかも感情表現のトップのように扱われているのも疑問を持つ、泣くことでのカタルシスは、それ以上考えないことと近い。

足が長いことがカッコイイ、スリムな方がステキ、というのも、どこかに生物としての優性要素があるのでしょう。世の娘達が自分の父親のことを臭いというのは、自分と同じニオイの異性を避けることと関係があると聞いて妙に感心したことがあります。同じニオイ=似たもの同士が結ばれるより、違う種類とのミックスの方が生物として強い・優性、純粋より雑種の方が強いことと関係していると思うと不思議に納得します。(とすると、人はなるべく自分と違う相手を選ぶのでしょうか?)自分とは何か、の答えが免疫システムだという説まで行き着きそうです。そこまで言う能力も知識もないので、即興の話に繋げましょう。

愛情などの感情をそのように捉えると,何か、人生味気ないような気にもなりますが、
当たり前のことを疑う事は、流されないためにも大事です。信じるために疑うのです。

自分は自分が思うほど自分ではないのです。疑うこと、そこに即興演奏の得意分野があります。

写真は 獅子頭琴BARRE(ガンベル)と羊頭琴(S.Itayan)

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