即興に関するよしなしごと(1)

即興演奏やフリージャズは大嫌いでした。(今も、ある種の即興演奏やフリージャズは嫌いです。)だから嫌いな人の気持ちはよくわかるし、逆に、方法としての価値が客観的にわかります。

歌が無いから、踊れないからイヤだとハッキリおっしゃってください。私は決して不快になりません。「私にはムズカシイ」と言葉を濁さないでください。だって、いい大人が、「変な」音を一生懸命だしているのは、普通でない、どう考えても異常です。笑っちゃいます。

ORBIT0のライナーにこう書きました。
「何で、こんなことになっちまったのだろう?
貴重な楽器や弓を手に入れて、弦もピックも松脂も諸パーツも厳選して、イヤって言うほど練習をして、イヤって言うほどの世界中の音楽を聴いて、いろいろな所に旅して、家族ももってさ、余裕のないくらしをして、「この音」だぜ。「普通の」音なんかほとんどありゃしない。誰だってできるんじゃない?
ありったけの自分を担保にして、1時間、音を出し続ける。そこまでして欲しいものがそこにあるの?答えは”YES” 完全アコースティック、完全即興、1時間キッカリ、合わせて110年の軌跡(齋藤徹)」

違う耳で、違う身体で、違う頭で感じることが大切。

先日、「徹の部屋vol.10」で共演した書家の平野壮弦さんの塾生のグループ展に行きました。会場中に張り巡らされたさまざまな作品はほとんどが即興的に書かれています。書は元々即興的な要素が強いと言えるでしょう。

「あっそうか、筆で書かなくて良いんだ!字を書かなくても良いんだ!紙に書かなくても良いんだ!」「じゃあ、こうやってみよう」「ああやってみよう」「こんなんでもいいのかな?」「ここまでやちゃって大丈夫?」「やっちゃえ、やっちゃえ」という溌剌とした気分に溢れています。

↑の写真は、塾生の作品の帽子、ありがたくもいただきました。残さない作品、使うことのできる作品、良いですね。

「作品は一人で書く、自己表現だ。」という事も無し。みんなで一斉に一つの作品に筆を入れているものもありました。あらゆる表現作品はいつか個人を越えて匿名を目指すのだと思います。日本には連歌の伝統もあるし、個人の表現では天才でない限り限界があることはちょっと見渡せばわかります。

壮弦塾長は「私たちはうまれたてですので・・・」とおっしゃる。この生まれたてが、どう育っていくのか?興味は尽きません。きっかけは何事に依らず大切なことです。

志を持って謙虚な姿勢を持っていれば(死を持っていれば)何をしても良い。人間、そんなにメチャクチャはできない。自主規制こそが敵。そんな余裕は無いはずです。

その道はなかなかキビシイ。日常がそのままでてしまいます。何を考えているか、怠けているか、嘘をついているか、楽器の稽古をやっているか、ごまかせないのであります。

そんな即興に関するよしなし事をつらつらと何回か書いてみます。(このシリーズはミッシェル・ドネダとル・カン・ニン・徹・ツアー2011のサイトブログでも同じものを載せます。)

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