6/12のブログに書いたように、ドイツにいるときブラジル音楽を東京にいるときほど必要としていなかった。ドライでちょっと肌寒いくらいの気候、スタジオを自由に使え、毎日のように即興演奏の本番やリハーサルがあり、求め、求められ、充実したストレスフリーな環境にいたから、という理由もあるだろう。(モンポウの代表作が「歌と踊り」シリーズだということもちょっと可笑しい。)
一方トーキョーライフでは、ブラジル音楽に身体をあずけていないといられない。これは、暗黙に思考停止を意図しているということか?目の前のことが面倒で現場を逃避していることか?若者が大音量のクラブで踊り、日常生活でも寸暇を惜しむように携帯プレーヤーに耽溺しているのと同じ?
思考停止するのが目的なら、ブラジル音楽でなくてもいいはずだけれど、どうもそうでもない。おそらく私には2ビートを求めているのだろう。心地よくゆったりと歩くリズム。4ビート、8ビートだと強迫されているようで、私には、かなわない。ブラジル音楽の中にも4ビート、8ビートも頻繁に出てくるが基本に2ビートが厳然とある。カエターノなんて最近のバンドで、2ビートの歌のバックを基本は8ビートにして他の拍子(6や5!)をぶつけたりしているが、2ビート(サンバ)は何をしても揺るがない。
米国では、世の中のスピード・社会の要請とともに2→4→8→16とビートが細分化されていった。後戻りはあり得ない。フランク・シナトラ、マイルス・デイビスなどジャズからスタートしたクインシー・ジョーンズがポップの王様マイケル・ジャクソンと仕事をするのは自然。ショービズの王道を真っ直ぐ来ただけだ。
4ビートジャズでも、ミンガス・モンク・エリントンなど2ビートを感じさせるビート感をもつ音は今でも好きだ。彼らがしばしば戻っていくのはミディアムテンポのブルース。それは2ビートがよく見える場所にある。
タンゴも絶対2ビートでなければならない。コントラバスがその2ビートを伸び縮みさせながら音楽を引っ張っていくのが最高にクール。ピアソラがミロンガを合体させたビートを成功させたが、あくまでアルゼンチンに根ざしたビートだった。完全な8ビートになってドラムまで入れたヨーロピアングループは短命で、音楽的実りも少なかった。一方、晩年はオスワルド・プグリエーセの(究極の)2ビート「ジュンバ」をどんどん採用していった。それはとても感動的だった。
また、ピアソラは、(ボリバル主義を言葉で言うのではなく、)3・3・2のビートを、中南米全体を象徴するビートとして共有したかったのではないか。(彼の出自・「亡命」先だった)ヨーロッパ・(彼を育てた)北アメリカに拮抗できる武器として、これを使いたかったのでは。充分に展開しえたとは言えないが「the rough dancers and the cyclical night」にその意図の端緒を感じる。タンゴビートの命とも言えるコントラバスをはずしピッチカートのエレキベース(おそらく縦型)にしたこと、亡命キューバ人を使い、北アメリカの有能なプロデューサーだった。同じシリーズの「tango zero hour」では、「キロンボ」(亡命奴隷)というコトバを連呼させている。
2ビートの元は2足歩行だ。4ビートのように急かされて歩くのではなく、じっくり一歩一歩踏みしめて、あるいは、ゆっくり、あるいは跳ぶように、踊るように歩く。いつものように飛躍するけど、デモ行進は2ビートであるべき。えらいやっちゃ、えらいやっちゃも2ビート。このビートに乗せると、人の思いも願いも、急かされずに、ある種の迫力を持って伝わるかもしれない。2ビートに促され、人々がどんどん家から出てきて、集まってくる、のしのし歩く、歌う、踊る。権力者には一番恐いかもしれない。知性も少し乗っけちゃえ。シコ・ブアルキのサンバでデモ行進したブラジル。プグリエーセ全盛の頃、楽団員・聴衆・ダンサーみんながジュンバに乗って踏みつける足音がズーッとズーッとズーーーっと遠くまで響いていたと言う。