喜和夫さんとのセッションの後もいろいろなことが頭を巡る。この国には言霊の伝統があるはずだし、そういう伝統に近く生きていきたい。しかし、世の中変だ。佐藤栄作の密約が発覚しても、そういうことはあったでしょう、という感じ。さらにはその嘘に恥じることなくノーベル平和賞を嬉々としてもらっていた。そのニュース映像をまだ覚えている。
嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれるぞ。
佐藤栄作個人よりも、密約の確たる証拠がでたことに大騒ぎしない現状がコワイ。ズーッとジーッとジワーッとそう言う雰囲気がこの国を覆っていることがコワイ。「空気を読め」という言葉がこういう風に使われることがコワイ。
野村さんが、言葉から意味を取り去った音に興味を持つのは、何も破壊衝動ではなく、本当は、言葉を信じたい、人を信じたい、という所から来ているような気がする。
意味にがんじがらめになってしまった、あるいは、そうしてしまった事から客観的になるために「音」としてもう一回見直そうということか。(白川静さん説によると「音」は神にお伺いを立て、その答えを水の揺らめきで聞くということ、さらに、嘘をつくと針で入れ墨の刑になる、という意味だという。)
そのためにドンドン下に降りていく。「最低・最悪」の素材としての言葉を使う、とおっしゃる。それは商品化を拒むことができる。意味をもとう、価値を高めようという運動の中に大きな落とし穴がある。その運動は一直線であり、もっともっともっともっとという方向にしか動かない。加速度がつき、いつしか後戻りできない状況になり、言う言葉は「だってしょうがないじゃない。
沢井一恵さんの打楽器的な奏法は、ご本人が一番やりたくない奏法だろう。そういう人がスティックを握り、弦を叩くから、説得力がある音がするのだ。私が即興やノイズにこだわるのも、その列にいたいからだ。
「だって、しょうがないじゃない」となかなか言わない人、そういふ人に私はなりたい。当日、会場に飾らせてもらった乾千恵さんの書(↑写真)に、そういう勇気を感じる。この書の元では笑顔が似合う。