今年最後の演奏から

1時間ピッタリの即興演奏。偶然1時間ではなく、決めていることが演奏時間1時間と言うことだけ。あとは何も決めない。

とはいえ、人間生きているだけで無垢でも真っ白でもありえないので、ゼロから始めると言ってもその多くは規定されている。2009年の12月28日に中野富士見町planBに居て、日本語を話し、それぞれの楽器を持ち、お互い不調を抱えているとは言え、男、50代という身体を持ち、多くの音楽情報を持ち・・・などと言っていると私たちの持っている自由はほんの少しだ。そのほんの少しの自由を無限にまで想像しうる自由を、この身体を担保にここに立っている。

「まとも」な音はほとんどない。どうしてこういう風になるの?貴重な楽器や弓を何とかして手に入れ(楽器=ガンアンドベルナーデル1877年、弓=ヴィネロン、グルンベルジェ、ベルナーデル)パーツも厳選し(象牙のサドル・ナット、黒檀のエンドピン、イタリアの軽量テールピース)、弦を海外に特注し(ガム−、トロ)、弓の毛は産地を特定し(今は姫路産が最高だ)、松脂は何十種類も試し(今はアルシェのチェロソロ、アレックス、昔のベルナーデル)その結果があの音達。なんてこった。

普段、自宅では、この日使った奏法を試すことはあまりない。バッハ、ピアソラ、ピシンギーニャ、あるいは開放弦だけでの倍音、など。「古典から盗まないで、どこから盗むんだ?」とピカソが言ったとか。

先日の徹の部屋・野村喜和夫さんは、自らの詩集15冊の他に、古今東西の詩の編集・批評、ヴェルレーヌなどの翻訳をしており、詩のすばらしさ・豊かさを充分すぎるほど知っている。そして「意味」に規定されない「音」にこだわったり、ウルトラマンの怪獣達の名前を使ったり、「きんたま」と言ったり、「詩」っぽい単語はほとんど無い。本番を控え、私は野村さんの本から抜き書きをしたが、ほとんどATOKの候補の最初の幾つかでまかなえた。今年、追っかけた吉田一穂とは対極だ。いくら辞書を探しても出てこない単語が多かった。

前々回徹の部屋の小林裕児さんは、1989年まで細密画を描いていた。1年に2枚3枚が限界、一日何時間もあまりに画布に近づいて描くので眼をやられてしまったそうだ。その時代にほとんどの西洋絵画の技法はマスターしたという。最後の安井賞を取った作品あたりからマンガ的とも取れる方法を使い、ライブペインティングをし、作品を作り続けている。

黒沢美香さんのダンスもその列に連なるだろう。モダンダンサーの両親のもとテクニックを習得した後、ちょっと見には「素人かと思った」と評されるような動き。しかしよく見ると計算され尽くされている。

舞踏の流れは、違うようにも見えるが実は、参考にすべき元がはるか遠くにあるだけなのかもしれない。それは「人間」やさらに「生命」の誕生のように遠いもの。

豊かなものを、真っ直ぐな方法で高らかに歌い上げることは、今、不可能なのか。MOMAへ行くと、最上階の現代美術に行くちょっと手前が一番豊かに見える。ワーグナー、バルトーク、ストラビンスキー、モダンジャズが豊かに感じられることと似ている。語るべき新しい詩、演奏されるべき新しい音、踊られるべき新しい踊りはもう無いのかも知れない。(ただ「歌」はその呪縛から逃れるカードを持っているのではないか?)

有名詩人の詩が巨大生命保険会社のテレビCMに使われ、ゲバラの映画宣伝で「革命」が商品化され、フリーダ・カーロの絵が渋谷中にはためき、「Don’t think, BUY!」というキャッチコピーが普通に張り出されるこの国。何でも商品になってしまう今、「やれるものなら、商品化してみろよ」と挑発して、この肉体を担保に賭に出ることは必要であり尊いことだ。

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