さまざまな回路をくぐりぬけて

楽器にはそれ自体が持つ歴史・伝統・音楽・夢が刻印されている。そして、人にも、その人(その民族)の持つ歴史・伝統・言葉・夢・そして現在・未来が刻印されている。

そう考えると、ある人がある楽器を使って演奏するということは、音は、幾多の回路を通って、時にはぶつかりながら、出てくることになる。違う楽器の人との共演となると複雑さは増すのみ。決して減ることはない。そういう状況で音楽を、どんな形にせよ、成り立たせるためには、最低限のコンセンサスが必要になるわけだ。ミューズの気まぐれに託すには、ちょっと長生きし過ぎている。

できる限りのコンセンサスを何ヶ月もかけて確立したコントラバス・アンサンブル(同じ楽器の演奏)で自作品を演奏した後、一日おいてのヴァイオリン・ピアノとの共演は、全く違う位相が待っていた。

ヴァイオリンの喜多直毅さん、タンゴ演奏家としての名前を聞いていたので、ピアソラを四曲。多くの情報量と経験を共通して持っていることが瞬時に判ったために、私と彼はあたかも、お国言葉を話すように演奏できた。ピアノの黒田京子さんはさぞかし苦労したはずだ。すまん。思えば90年代に、私の興味のままのさまざまな企画(韓国もの、ピアソラもの)で辛抱強くサポートをしてくれた京子さんには、常々感謝しています。

我が愛するブラジル音楽は、喜多さんが遠いようだ。黒田さんもサンバ的な乗りはちょっと縁遠いようなので、ブラジル音楽の持つ豊かなハーモニー(ブラジル音楽特にMPBの楽曲は、ほとんど西欧音楽理論で捉えることができる)、豊かな詩心、歌心を黒田さんに託した。ショーロ「鱈の骨」の器楽演奏性は、喜多さんと共有して楽しんだ。

そんなワガママな選曲の第一部に対して、第二部は私の作品を演奏。前半の名残のある「街」でラテン・ジャズ的な乗りは共有できた。「ミモザと金羊毛」黒田さんと私の共通する音響的な興味を元にして、音響のスペクトラムのなかで喜多さんには存分に弾いてもらった。(ただしトルコまで行かないで東欧で留まってね、とお願いした。)

「蓮の事情」のミロンガ・ハバネラでちょっと昭和歌謡のような古びた感じ、「舟唄」では、4声のカノンの波が押し寄せる感じは気持ちよかった。「帰ってきた糸〜西覚寺」は再び、ある特定の音響の中での演奏。上方に引っ張られていく感じの演奏がある程度実現できた。喜多さんもヴァイオリンを変則調弦にしている。ここで少しく楽器の扉が開き「あたりまえ」のことから逸脱できる。

毎日のように生演奏をしているお二人はさすがにのみこみが速い。しかし今回は、「じゃあ、お疲れ!またどこかで!」でにこやかに別れるのではなく、もう二人の中で次のことが進行しているようだ。そういう気持ちにはできる限り誠実に答えたいと思っています。7月には喜多さんの考えの基に同じ三人で演奏することになったことだし・・・・。

決して答えのでない三人・三楽器の迷路を楽しみましょうか。

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