ドンドン島の帰り、ちょっと先の小島に寄ることになる。周囲200〜300メートルの無人島。ザイによると、ここには、気づかれないような木の印があり、海の遊牧民にとっては聖なる島ということ。なぜか急に泳ぎたくなり、島を一周した。すると火傷のような日焼けがスーッと退いていく。海が身体を治してくれる。
私のオンバク・ヒタムの経験からいくと次に流れ着く地は沖縄。私が訪れたのはそんなに古い話ではない。もとより仕事以外ではほとんど旅をする余裕はない。「行ったこと無いの?すっばらしいよ」、と聞きながらなかなか縁がなかった。初めて訪れたのが劇団「衝波」(照屋義彦主宰)との仕事。普通の演奏の仕事ではなかった。
劇団の仕事はいくつかの経験があった。片手間では全く成果が上がらないものだという認識がある。ギアを入れ替えて、リハからずっとつきあい、一緒にストレッチをし、毎日飲み会に参加し、あーだこーだと議論する。謂わば当分「演劇を生きる」。それが唯一のカギだと思っていた。しかし沖縄につきあいのある人はいない、なぜ私が呼ばれたのかもはっきりしていない、不安を抱えてで行く。仲介してくれたのがモリジュン(森田純一さん)で、同行してくれるというので引き受けた次第。
空港に着く、眼光鋭い照屋さんに会う。社交辞令的な笑顔も挨拶もなく、寡黙な彼に誘われるまま車に乗ると、読谷村へ行き、象の檻(今はもう無い)、チビチリガマに直行。「これは、試されているな。通過儀礼だ。」と直感するが、どう反応するか考える余裕もなくなる。ちょっと前にポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ収容所に行ったばかり。同じにおいがするのでブルッとからだが震える。
宿舎は、取り壊し真最中の国際ホテル。半分は壊され終わっていた。明らかにアメリカ人用で、部屋や風呂は大きくて良いが、ドアノブ、トイレも日本標準の20〜30センチは上にある。「裕次郎サイズですね。」と沖縄に詳しいモリジュンは言う。
観光ヤマトンチュとは全く違うウチナー入り口。覚悟をせねば。
すぐに稽古が始まる。私は精一杯彼らの意図を知ろうとする。何を求めているか。薩摩藩のお偉方の前で踊りを献上し、最後に髪の中に忍ばせていた刃で殺害を謀る美女達、当時の東ティモール独立の話が出てきたりする。怒りを中心に矛盾や差別を主張している。
実は、私にも隠された役があり、ヤマトから来た音楽家を日の丸で覆い隠してしまうというものだったそうだ。リハーサル途中で「どうもそういう人ではないらしい」ということになり、そのシーンは幻となったと聞く。なんともほろ苦いウチナーデビューだった。
公演は順調に進んだ。俳優と観客が激しいやりとりをしたり、踊り出したり、それは韓国の小劇場と同じだった。観客がおとなしく、念入りに準備された舞台を鑑賞するというものとは真逆。ここにもオンバク・ヒタムの共通項があるのだろうか。60年代〜70年代のヤマトのテント芝居もそういう要素が有ったというから、「失ってしまった」と考えた方が良いのかもしれない。
最終日、台風が那覇に居座り、ちょうど台風の目に入ってしまった。調子外れに穏やかな曇天なのだが、島全体の機能が停まっているので、りうぼうホールも閉鎖。最終日をやらずに終えることはできない、と大きなカフェを片付けて急遽上演することになった。その時に手伝ってくれた人たちの中に「琉球・リトアニア協会」の人たちがいた。なんとも不思議な組み合わせだが、両方とも、アニミズムが生き続けているところ。ジョナス・メカスも琉球のファンだという。照屋氏とは一回りくらい上の世代の人たちだ。
彼らと話したことがとても印象的だった。「衝波」は今、喜怒哀楽を精一杯ぶつけている、それは正しいし、必要なことだ、しかし、その先に行ってほしい、ということだった。私が感じていたことと近かった。「喜怒哀楽は表現ではない」という太田省吾さんのコトバに、自分にとってそれはどういうことか、を考えていた頃だ。この公演をヤマトでもウチナーでもない場所でやったとしたらどうなる?そして私はその時どういう音を出す?
自らの「正しさ」を根拠に声高に叫んでもその声は通らない。詩にして、歌にしなければ自己満足に終わる。
そんなことを課題に第一回目のウチナー訪問は終わった。