オンバク・ヒタム(8)

新宿のデパートで田中一村の展覧会を観て感心しているとモリジュンから奄美への誘いがあった。いまでは、元ちとせ・中孝介・UAで認知度がアップしている奄美島唄はほとんど聴かれていない頃。モリジュンが聴かせてくれたのが里国隆さん。奄美の盲目の樟脳売りストリートミュージシャン。独特の短い竪琴や三線を弾きながら歌っている。

頭蓋骨を振るわせているようなブルージーな声は黒声(くるぐい)と呼ばれている。ホーミーのような高次倍音が出ている。こういうブルース系の絞り出す声がどうして奄美にあるのか率直な疑問だった。アメリカの黒人ブルースが、綿花プランテーションの労働奴隷が一つの源泉だとすれば、奄美にも全く同じ構造があった。薩摩藩は稲作を禁止し、サトウキビのみのプランテーションをつくりあげた。(鹿児島県に編入されることを良しとせず東京都に編入を希望する運動もあったと聞く。)

その富を遊興に使う歓楽街も娼館も自然にできあがり、そこから生まれた女性の歌も当然ブルース。ニューオーリンズの娼館からジャズが、ブエノス・アイレスの娼館からタンゴが生まれた。奄美の歌にも共通する存在理由がある。「歌でも歌っていなけりゃ、やっていられない。」その歌が力強く、人々の心を打つのは当然なのだろう。非日本人に里さんの歌を聴かせたら、ほとんど「アフリカ?」と答えた。

今や奄美音楽の最大の紹介者になっているモリジュン・ジャバラレーベルも当時はまだ録音を開始し始めた頃だった。モリジュンの運転手として奄美をかなり回った。右折・左折するときにほとんど停車状態になる島の人たちの運転に初めはビックリしてイライラしていたのにすぐに同化、同じような運転をするようになる。まず、里さん関係の調査。合いの手を入れていた歌手のお宅でお話を伺ったり、短い竪琴が現存していることも、弾き続けている方がいることも分かった。大成瓢吉さんの画集のためのエッセイを書いて郵便局にFAXを送りに行ったり、わくわくする日々だった。

島唄を録音させてもらう話も何件か行った。得意の歌を聴かせてくれる人もいたが、なかなか引き受けてくれない人もいる。当時はまだカセットテープ全盛で、 CD録音が全くといって良いほど馴染まない状態だった。ある晩、歌会があるというので行くと、老人達が大いに盛り上がって歌い合っている。「まあ飲め飲め」と勧められて飲むとなんとその白い液体は酒ではなく、甘い飲み物「みき」だった。カルピスのような味。モリジュンの説明によると「御神酒(おみき)」の元ではないかと言うことだ。酒に酔って歌うのではなく、歌に酔って歌い続ける、気がつくと深夜。外は降るような星空だった。

沖縄の歌や集会を思っていたのでビックリした。沖縄では泡盛が付きもののようにどこでも酒を飲み歌い踊る。インドネシアから沖縄までの音階と奄美以北の音階にははっきりとした断層がある。おなじ琉球弧といえ沖縄と奄美は違う。とはいえ、音楽が断絶しているのではなく、沖縄音楽といえばこれ、という「六調」のリズムはもともと奄美のものであり、奄美の出稼ぎ労働者が伝えたという。旅の途中、ロックンローラーのように格好いい「おじい」の六調を聴かせてもらった。自宅の襖を全部取り払い、周囲のみんなを巻き込んでの祝祭空間だった。

島唄の「しま」とは集落のことでもあるらしい。やくざの「しま」も同じ語源だとか。道路が整備されていなかった時代は、隣の集落に行くにも舟のほうが何倍も便利だったそうだ。いずれにせよ舟での交通が生き生きとした日常だったのだろう。

里さんの伝統は途絶えているようだ。何年か前ミッシェル・ドネダと東北に行ったとき、ライブハウスで短い箏をみつけた。長さは里さんのものと近い。はたして・・・

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