チェチェン

人は、それぞれの理由があり生きているのだから、対立したとき、コトバで納得させようとしても無理が生じる。自分が「正しい」という理屈をいくつならべても無駄だ。「正しい」ことは何か寂しさがつきまとう。相手の「正しさ」を理解できない寂しさというよりは、相手も自分と同じような状態ではないかという茫漠たる共感なのだろう。

その領域で、「表現」が有効になる。寂しさからの歌、踊り、映像、美術、文学。

住んでいる場所と状況によって偏った情報しか流れてこないことにいつも気づいていなければならないし、自分の「今・ここ」のあやふやさ・例外性を意識することも常に必要だ。「だってしょうがない」ことは本当に「しょうがない」のか?

アレクサンダー、アレクサンドラという王家の名前が木霊するタルコフスキー、アンゲロプロス。昨夜はその流れにあるソクーロフ監督「チェチェンへ、アレクサンドラの旅」を観た。チェチェンのロシア軍前線基地内の実映像。戦闘シーンは一切排除しているが、いかにも旧式の銃の手入れ、焼け落ちたチェチェンの住宅に住む人々、人の行き交う市場などから戦争のリアリティを映し出す。

「男達は憎しみ合う、しかし私たち女ははじめから姉妹」というロシア人とチェチェン人の老女。前線基地での食卓に野の花を置くロシア人の若い兵士。「もう解放してほしい」と老女アレクサンドラに懇願するチェチェンの若者。アレクサンドラの孫の大尉が聴いているポータブルCDプレーヤーには何が流れているのだろうか?アレクサンドラ役はロストロポービッチ夫人。

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