ダンスで良いところのひとつは「限界」だ。つまみを回すだけで音量が自在に変わったり、色が変わったりすることと対極にある。そして「身体」はみんなが持っている。「共感」できる要素が多い。そして「身体」は自分の知らないことだらけの「記憶」の貯蔵庫。ダンスのワークショップが人気の理由だ。音楽のワークショップは入り口で限定されてしまう。(ダンスと音楽の共同のワークショップにはとても興味があるが・・・・・)
悪条件を逆転させること、その差がこころをうごかす。ここまでしか飛べない、曲がらない、動かないものを限界としない。ありのままに受け入れる。では、「ありのまま」をどこまで知っているのか?「常識」を「ありのまま」と勘違いしていないか?「立っている」だけ、「歩く」だけがどれほど難しいか。呼吸することさえ意識すると難しい。あらゆる生き物(獣・植物)を食らい、性行為をし、まがまがしく生きるノイズだらけの皮袋。自分の身体、ココロを所有しないことから、見えてくる。「だってしようがないじゃない」で終わらせない。
逆を言えば、つまみを回すだけの電気楽器もそれを悪条件と考えれば、逆転できる。身体性を想像力で補い、負荷をかけ、願いをかける。そこに支えられていれば電気楽器だって、がらくただってOKだ。「そこ」はどこか?「死」だ。「生きること」は「死ぬこと」。それを忘れてしまうと、身体を損ない、頭を損なう。命がけの遊び。
今関わっているモダンダンス、コンテンポラリーダンスともに、意味不明で不思議な振り付けがいくつもある。稽古をみていると、さして意味があるわけではなさそうだ。大相撲で力士が円になり、手を挙げたりするのに似ていなくもない。意味があったものが時とともに形だけが残ったものと、何となく振り付けしたものの差はどこにあるか。当人が決めるしかない。いや、決められてしまう。
私が韓国のシャーマン達に習ったもので最大なこと、あらゆるリズム(長短ーチャンダンという)には意味がある、ということだ。音楽は要素の寄せ集めではなく、まとまりとしてすでに存在している、ということ。演奏家は、良いところを見せる、のではなく伝えるだけ。