ヒトとモノを隔てる・・・

この写真を見て「テツさん、演奏しながら寝てるの?」と冗談を言われてしまった。そのコトバに引っかかりながらダンスのリハーサルに通い(今年はダンスの仕事が何でこんなに多いのだ?)気がついた。演奏活動を始めた頃からすでに、ほかのジャンルとの仕事が多かった。最初が大成さんの美術との関わりだった。その時に取り決めたのが「お互いがお互いの説明をしない。自立していること。余計な夢はもたない」ということだった。

その取り決めは、ダンス、演劇とやるときも有効だったし、指標だった。(演奏家同士でも言えることだった。)では、具体的にどうする?まずやったのが「焦点を合わさないで観る」ことだった。焦点を合わさずにボンヤリと全体を観る。どこに意味(価値)があるかではなく意味の差をなくす。この色、この動きが大事か否かで差別化するではなく、全体をぼや?っと観る・聴く。ヒトとモノを隔てる輪郭を消す。色と音とを隔てるものを消す。「字」を見ても模様に見えるまで、「話し言葉」を聞いても「メロディ」に聞こえるまで。(メキシコ、ヤキ・インディオのドン・ファンを思い出します。懐かしい。)

集中する方向が「意味」「価値」と繋がっているとすれば、拡散する方向で意味・価値から自由になる。そのために手っ取り早い方法が私にとって「薄目」で見る・観ることだった。じっと見ると自然に「意味」を探ってしまう回路に陥る。

ダンスとの演奏中、ほとんど薄目になっている。それを撮った写真では確かに「寝ている」ように見えてしまうというわけだ。目をしっかり開けていても大丈夫なときもあるけれど、ダンサーとの共演の場合は、薄目が多い。

「まるで、ほかの部屋でやっているように」演奏するとか、ダンス・美術など共演者を一切見ないで演奏するとかは苦手だ。せっかくこの場にいるのだから、瞬間瞬間には焦点をビッタリ合わせたりする。

「ダンスは何かを探す行為、音は呼びかける行為」という話が好きだ。おそらくダンサーの意志を超えて動きは一人歩きし、演奏家の意志を超えて音は呼びかけている。そのためにも当たり前の感覚からは自由になりたい。自分が自由にならなければ、良い「通り道」にはなれない。

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