五井輝さん

五井輝さんの訃報。あまりにも突然。

3 回共演した。1回目は愛知芸術文化センターでのイベント「舟の丘、水の舞台」ジョエル・レアンドルの初来日中でデュオツアーの間に二人で参加した。ほとんどお話もしなかった。随分経ってから、横濱バンクアートで元藤あきこさんの一周忌イベントの時にお会いして次回作「音江山」の音楽を依頼された。

それは、随分久しぶりのソロ公演ということ。「なぜ私が?」と思いつつ引き受けた。北海道の炭坑などをモチーフにしていた。飯能の稽古場兼自宅におじゃました。舞台をほとんど再現した稽古場で何年も練りに練った出し物を衣装も装置もすべて演じてくれた。その丁寧な物作りに感動した。こういう物作りは今ほとんど無い。

60〜 70年代の日本のサブカルチャー隆盛期に全く「遅れてきた」私は、なぜか小劇場や舞踏やジャズの人たちから呼ばれることが多かった。早稲田小劇場・転形劇場・天井桟敷・アスベスト館・フリージャズなどの人たちだ。「舞踏」の露悪的なところが嫌いなんです、フリージャズの叫びや心情吐露のような泣きは分かりません、なんて大御所達に平気で言っていた。

熱い時代を共有していない私は、とまどいながらも(そして音楽も人生も明らかに経験不足だった)その世代と少し繋がることができた気がした。しかし何か大事なモノを共有していないという違和感は決して消えることがない。

「音江山」は連日入りきれないほどの盛況。その年の舞踊批評家大賞を受賞した、とご家族から喜びの手紙をもらった。その年の新人賞は工藤丈輝や上村なおかなど馴染みの名前が多かった。

それから2年たって、またお願いしたいと言う電話。しばらく経つと、1年後の舞台と言うのにもう巨大なポスターが送られてきた。「神居」と言うタイトル。異形の徒の立ちつくす姿と、当時の小学校の集合写真のインパクトは相当だった。北海道に足繁く通うようになっていた私は、音江山もアイヌの人たちも北の大地の歴史も少しは知るようになっていた。飯能の稽古場に行く。前回の公演から3年間、毎日毎日、この稽古場で本番さながらに作り上げてきているのだ。今回はモチーフがより個人的になってより北海道での幼少期〜少年期になっている。

私の出番も役割も確実に増えているのでとても嬉しかった。今までの思い出の舞台装置をいくつも動員している。衣装は、土方巽さんと元藤あき子さんの遺品も使っている。公演日が元藤さんの命日にも重なっていた。「これがラストラン」とか「ここでやるのはこれが最後」とか今思えば気になるコトバも聞こえた。

典型的な「舞踏」の要素を2時間以上ソロで徹底的にやっている舞台は、すがすがしくさえあった。「舞踏」である必要も越えていた。さあそろそろお話をすることができるな、と思って、普段あまり行かない「打ち上げ」に顔を出した。思いの外、閑散とした座敷で相変わらず「大野一雄」「土方巽」という単語ばかりが飛び交っている、苦手な感じだ。なかなか会話のチャンスもなかった。まあいいや、次回また呼んでもらったらリハーサルの初期から関わっていろいろ話をしようと思った。

打ち上げ参加者ひとりひとりの帰りの心配をしていた姿が最後になってしまった。まだ半年前のことだ。鍛え抜かれた身体は40代のもの、それだけに進行も早かったと言う話。合掌。

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