「終わり」の感覚って?

年末年始

29日に松本でSoNAISHライブ。松本城近くの陀瑠州(ダルース)は松井えみこさんが28年間守ってきたスペース。このところ体調を崩し、定期的な営業ができなかったが、やっと復活のようだ。私も長い間、沢井一恵、バール・フィリップス、小松亮太、などいろいろな人と演奏してきた。今回は直々にSoNAISHで、ということ。嬉しいものだ。「このごろの若者は・オトナは・役所は・経済は・年末は・・・」など話をひとしきり。東京も松本も同じだネ。お互い人生の残りの時間を勘定して、いったい何ができるか、何を伝えたいかなど将来に向かった話ができてとても嬉しい。360度雪山に囲まれた景色を満喫。何とか共同でできることを探していきたい。
(注:SoNAISHのブログは井野信義さんが個人的に引き継ぐことになりました。)

「年末らしくないよね~」ホントに。「終わり」の感覚はもしかしたら「ニホンジン」独特のものがあるのだろうか?大晦日で一応全部終わりにしてしまって正月から新たにすべてが始まると言う感覚。確かに薄くなったがそういう感じをわからないではない。

音楽の現場でも思ったことがある。
特に即興の現場で「日本的」だなと思うことは沢井一恵さんがいう「ハラキリ」の感覚。「一音成仏」あるいは「無絃琴」の感覚。例えば何人かで即興演奏をしていて(途中はどういう状態であっても)終わり方がビシッと「決まった」時の共感は「ニホン」独特かもしれない。ビシッと決まったとき、最大級の充実感を得、もうこれ以上は絶対、音を出したくない、と言う感覚になる。それは日本人同士は暗黙に伝わるようなのだ。ノン・ジャパニーズといるときは彼らも「終わりの決め」の快感は共有するが、「こんなに良い感じなのだから、もっとやろう」となる事が多い。その時のズレを決定的に感じたことが何回もある。

別の言い方をすれば、ニホンジンはその終わりの快感を求めて演奏しているのではないだろうか・・・さらに言えば、ノイズをだすのも、多くの音を使うのも、終わった後の静寂が引き立つためにやっているのではないか。ちょっと言い過ぎか・・・・

ザイ・クーニンと話すときは英語を使うが、ザイの英語には過去形・未来形がないことに気がついた。お互いに他国語であるから、それぞれの言語のミスは自然に修正する習慣になっているので、お互いに「正す」ことはないが、あまりに気になったので聞いてみた。「そう。私はマレー語で考えて英語にするので、過去形・未来形がなくなるのかもしれない。なぜならマレー語には過去形・未来形はなく、文脈や副詞で理解する」という。熱帯の国は四季がなく、同じ気候がズーッと続くため過去・未来に対する感覚が違うのではないかと言う話になる。

正月になると一から始めてしまうことも、過去形・未来形が厳密にあることも、その感覚の元にある「現在」に対する感覚も、四季があることに何かしらの原因がありそうだ。過去を忘れること「戦争」のことを忘れることとも関係があるのか?「水に流し」たり、「無かったことにしよう」ということが「妥協」に近い。一つ一つコツコツと何世代にもわたって継続的に積み上げていく感覚は確かに乏しい。ピラミッドにしても、サグラダファミリア教会にしても遠い感覚だ。

自然・風土がニンゲンの感覚に刷り込んでいることをあらためて感じた年末年始でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です