鶴見和子さん、お疲れ様でした。

私が学生だったのは70年代なかごろ。もちろん?面白い講義はほとんど無い。その中で多少の興味を引いたのは教養課程の生物学、鶴見和子ゼミ、当時としてはめずらしかった韓国語講座だけ。その頃の鶴見さんは水俣病の調査、南方熊楠の紹介、生態学的な発想の取り込みなどをしていた。色川大吉、三田宗介などアカデミズムに留まらない学者の一人として注目されていた。弟の俊輔さんとの「思想の科学」、和歌や日本舞踊もたしなみ、ほとんど着物を着て、プリンストン大学で社会学博士になり、後藤新平・東京府知事の孫という存在は、フツーの人の住む世界と明らかに違っていた。

あの大杉栄に、仏典のフランス語訳のアルバイトをやらせていたという後藤新平には興味があった。70年代中頃といえば、「新左翼」同士の内ゲバ殺人の時代。実際私の家の正面の下宿でも殺人があった、そんなすさんだ、閉塞感と無気力が社会を覆い始めた時代。大杉と東京府知事の関係はなにか昔の「大きさ」を感じさせるものがあった。「右翼」と「左翼」の二分法ではとうてい捉えきれない大きさが当時は有ったのだろう。一緒に暮らしていた私の祖父もそうだった。

私の生まれた年は自民党ができ、テレビ放送がはじまった象徴的な年。「左翼」は正しいというような雰囲気の教育だった。まだ「戦後」だったのだろう。当時新進気鋭の松本健一が竹内好の後に出てきて、「リベラル」が「右翼」と「左翼」の間にいて、両者のバランスを取りながら権力を握っているという言い方をした。興味を持った。リベラルに対して良い印象しかなかった当時の私には衝撃だった。まさに「リベラル」の香りのする鶴見教授に、日本・アジア関係からの右翼・左翼の近代思想の論文もどきを提出。大学院で続け、出版しなさいというアドヴァイスをお断りして、ベーシストになった。

それから鶴見さんには会っていなかった。私が何か「歌」を作れたときには聴いてもらおうとは思っていた。鶴見さんが倒れ半身不随になったという話を聞いた。しかしそれをきっかけにいままでの仕事がまとまり、開花したと本人もおっしゃる。9冊の全集をまとめた。同じく半身不随になった免疫学の多田富雄さんと対談集までだした。あいかわらず、やってるな~と思っていた。

追悼番組を見ながらいろいろと思いが巡ってしまった。

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