plan Bとオンバクヒタムとシモンボリバル

明日のplanB公演についてずっと考えていました。かつては近所に住んでいたので、楽器を転がして行ったものでした。(そうすると終演後酒を呑めた。それも楽しかった。)あれから10年は経っているか?

昨日、事もあろうに、plan Bに最も深い繋がりをもつ木幡和枝さんの訃報に接しました。私自身がこういう状態ですので知人の死は普段より心にさらに迫ってきます。なんというタイミング。40年前、初台「騒」ではじめてプロとして演奏した1ヶ月前に阿部薫さんが亡くなっていました。

木幡さんとお目にかかった中で印象的だったのが、ジョージ・ブッシュ空港(ヒューストン)何という命名!私はジャン・サスポータスさんとボゴタ公演(コロンビア)のために乗り換え。乗り換えといえども無意味に思える入国審査・出国審査をしなければならず、長蛇の列で嫌気がさしていました。おまけにコロンビア〜ヒューストンの小型機ではあからさまな人種差別を受けました。最後列に私を含めたアジア人だけが配置されていました。最後列はリクライニングできません。あきらかに予備席でしょう。

話を戻すと、ジョージ・ブッシュ空港の入国審査の時に車椅子で私の脇を通って行ったのが木幡さんでした。声をかけようにも車椅子はスーッと通って行ってしまいました。

ボゴタで良い公演・ワークショップができて、待遇もよく無事に終了。(治安は最悪でしたが・・)

帰国後、私のライフワークの1つ「オンバクヒタム」公演を座高円寺で行いました。ベーストリオ羊(瀬尾高志・内山和重・私、全員ヒツジ年)螺鈿隊(市川慎・梶ヶ野亜生・山野安珠美・小林真由子)の音楽に田中泯さんの踊りが加わりました。

私と同様に「黒潮回帰」などの著者、吉田一穂さんを慕う田中泯さんとの公演は、当時の私の全てを賭けた公演でした。オンバクヒタムの考えはアジアを南から琉球弧を通り、親潮ではなく対馬海流に乗り、韓半島、日本海側、北海道へ辿りつく流れと文化です。

再び、話を戻します。
公演で、泯さんは布団に寝ているところから始まりました。琉球や韓国にインスパイアされた音楽に、泯さんは実に自在に踊っています。見事でした。今でも目に浮かぶシーンがいくつもあります。

泯さんはずっと帽子を被っていました。そして、その帽子こそ、木幡さんがジョージ・ブッシュ空港からベネズエラに飛び、チャベスさんとあって、いただいた帽子だということが後で分かりました。

チャベスさんもカダフィさんも石油に恵まれた地ゆえにさまざまな国際政治の思惑に揺さぶられ亡くなりました。かつてのアジェンデさんも。そして現在も。

シモンボリバルの理想を常に掲げたベネズエラ。その名をつかったエル・システマ制度の音楽教育。その音楽の中心が西欧クラシック音楽以外にも発展することを願っています。ベルリンフィルの指揮者やコントラバス奏者にエル・システマ出身者がいます。

ともかく、あの時、高円寺で、シモン・ボリバルとオンバク・ヒタムが出会っていたという象徴を私は大事に思いたい。

明日のライブに備えたいと思います。一期一会。🍎