スペアリブやマグロの中落ち、旨いですよね〜。骨の近くが特に美味。わたしは今、そのあたりに伊丹さん滞在中(痛み発生中)です。ずいぶんと肉は落ちてしまいま
したので旨いかどうか分かりません。鳥葬しても抗がん剤を察知して鳥たちが食ってくれないかもしれません。肋骨のくぼみを指で擦るので、まるで、このうずきから翼が生えてきて、大空をバサッバサッと優雅に飛んでいくのだ!やっと空が飛べるのだ!ベルリンの彼になるのだと夢を見るのです。
夢を見ようが見まいが、時は森羅万象に平等に流れ、11日には「いずるば」で久田舜一郎さんをお迎えします。精一杯ガンバリマス。さもなくば、いままでやってきた甲斐が有りません。先週同様、たいへん貴重な機会です。
能というと敷居が高い感じがしていました。触れるきっかけがなかったのです。きっと歳を取ってから分かるのかな?なんて気楽に思っていましたが、今の暮らしの中にどれだけ大きな影響を与えているか?
能を由来としたコトバ:
板に付く
檜舞台を踏む
打ち合わせ
申し合わせ
乗り(リズムのと取り方)
後見
キリ(がいい、がない)
あしらい
囃子
立ち会い
これだけでも何と身近なことかと驚きます。ごく自然に使っています。「初心忘るべからず」というのも世阿弥ですが、誤解されて使われています。
演技・演奏は捧げ物なのか、エンターテイメントなのか、という根本の問題がよく話題(答えの無い質問)になります。
能は、捧げ物であるため、終演後に聴衆が拍手することはありません。それだけでも現代の演劇として異質です。神様の席がある、と聞いたことがあります。(久田さんに聞いてみましょう)。
一方、エンターテイメントでは、拍手で演技に対する感動(の大小)を表します。スタンディングオベーションや、カーテンコールを何回も要求するとか。演者と聴衆は横方向でつながっています。ジャック・ブレルのオランピアでの引退公演では、シャワーを終えても拍手が続き、ガウン姿で出てきていました。(関係ないね、失礼)
捧げ物は縦方向(上に)向かいます。聴衆も演者も上に向かって捧げ、お布施として金品を授受があるという形式。
お経も、捧げ物です。劇場で出し物として声明やお経の実演の場合、終わった時にほとんどの聴衆は拍手するべきか否か、迷います。現代音楽が共演していると迷わず拍手をします。お経・聲明は世界的・人類学的に見ればハッキリ「音楽」と分類されます。この差。文化的遺伝子(ミーム)でどれだけ私たちの身体に刻まれているのか?
そしてそれは、空気を読むのが苦手、例え話を嫌い、急な変更を嫌うダウン症・自閉症の人にはどう作用するのでしょうか?ダウン症の人は民族的特徴が出る前に遺伝子が作用するのか、民族を越えて似た顔になります。あらたな興味・視点です。
「打ち合わせ」で鳴り物をポンポンと打つだけで通しリハーサルなどはやらない、といいます。すなわち、だいたいの音の感じを聴き取り、本番舞台で勝負するというのです。その時、どんな流派の人が来ているか分からないのです。まさに即興。
また、きびしい修業時代(殴る蹴るは当たり前)を終えるとその日からプロフェッショナルで、演目のすべてを知り、現行よく演じられる100以上のすべてのパートを知っている!!そして小鼓のプロフェッショナルは、全員難聴なのです。なにしろあんな音を耳の隣で聴いているのですから。一年中蝉が鳴いてます、なんて戯けて言います。
即興的要素は多分にあり、「道成寺」の乱拍子(乱調子)のところで最高レベルのインプロを体験しました。わたしは久田舜一郎さんの道成寺をいままで2回観劇できました。1回はこの世のものとは思えないインプロの世界が繰り広げられ、1回はちょっと気合いが空回りしていたようでした。思い返せば、その部分は即興に任せているということであり、ドラマ作りとしては冒険でしょう。そんなの関係なく(即興を重要要素として含めて)伝統は続いてきている!のです。
道成寺の乱拍子の時、久田氏は、後見を二人付けます。一人は椅子を支え、一人は小鼓の皮に湿気をあたえる。久田氏はともかく集中してシテと対決しているので、椅子から落ちたり、皮に湿気を与えている余裕は無い。
客席と言えば、ウイークデイの昼間ですので、外国人観光客やほとんど寝ているひとばかり。そんな環境でこんなスゲーインプロが行われていることに心底驚きました。
そして、扱う題材すべて「幽霊」「死」です。人間にとって生死以上の題材は無いわけです。しかも霊が普通に登場するという極めて特異な演劇です。この世で唯一確かなこと「死」を題材に選ぶ先見・知恵・狂気・文化。
4月11日 沼部「いずるば」にて開催。