いずるばオープンリハーサル第1回目
第2回「いずるば」フェスを開催すべく、オープンリハーサルを開始しました。
昨年の第1回目「いずるば」フェスを開催できたことがなによりの土台になっています。新たなことは「目新しく」新鮮で魅力的ですが、そこには行きません。
まず「場所」がある、そして、個性あふれるさまざまな人がいる、これだけで充分。「弱さという鏡」もある。何も新しいものがなくても、世界初演でなくても、最先端でなくても、充分に豊かなのです。お天道様の下に新しいものなどないわけだし。
昨年のメンバーがすべてを理解していると思うのも間違い。一番伝わっているような人が真逆に理解していたりする。それでも良いのです。納得・理解は、後で、のこのことやってきます。かく言う私がわかっていないことは膨大、日によって違うことを言います。
しかしここにはもっと大事で必要な「何か」があります。失敗もOKです。
私が今年のテーマとしてとりあげたいのは「伝わる」「ことば」の2点。昨年のフェスからの宿題です。この2点は同じことかもしれません。
言葉は、意味をつたえる、ということが当たり前になりすぎている、と危惧します。
こんな世の中ですから、言葉が信じられなくなり、言葉以外の音楽やダンスや美術に関心が行くのもよくわかります。政治もマスコミも裁判も警察も学校も親も友達も愛も信じられない。すなわち自分が信じられない。
言葉が信じられないことは、人が信じられないことで、待てないことで、競争することで、右肩上がりを当然と思っていることにも通じます。
信じること=待つこと=聴くこと
言葉で言えないから踊るのだ!演奏するのだ!と言うのも分かりますが、言葉で言えたら、踊ることも演奏することも必要なくなるのではなく、さらに拡がり、繋がり、豊かになる!
意味に疎外されない、意味を所有しない、こと。言葉が詰まらなくなっているのは、意味「に」疎外されているから、意味を所有して矮小しているから。
Aさんが「美しい」ということとBさんが「美しい」ということは違うのです。
Aさんの「美しい」は、Aさんの「美しい」以外のものが支えている。Bさんもそう。同じ訳がない。
Aさんの「ド」はBさんの「ド」と違うでしょ?
意味の「意」は、音+心。「息」は自らの心。ひとりひとりの息が違うようにひとりひとりの音はちがい、意味は違います。
赤ん坊にとってガラス玉とダイヤモンドの差はありません。それが「意味」によって雲泥の差を作って行きます。まず、汚れた「意味」を剥ぎ取ってみる、疑ってみる。そして、そこに表れるものは何?その時、おたおたしない。
ハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」を思いだそう。膨大な脚本から「重要な」文章を抜き取ってスカスカの脚本にしたために、かえって、想像力を喚起するものになり、多くの演出家のイマジネーションを刺激しました。「わたしはハムレットだった」で始まります。この台詞だけでどれだけの想像力をかき立てることでしょう。吉田一穂が「山中の塩」というだけでどれだけのイマジネーションが沸くか。だれもハムレットの筋を知るために劇場に行きません。文七元結の筋をしるために寄席に行きません。
台詞を間違えたとき、楽譜を忘れたとき、何が起きるか。そこを観たい・聴きたい。そこには、台詞を支えていたもの、譜面を支えていたもの、練習を音楽を支えていたものが現れます。
舞台で寝てしまった3人の名人。古今亭志ん生・ジョアンジルベルト・海童道。
おしゃべりの言葉と詩の言葉も違います。
普通の反応としての会話は時間つぶしとしては有効ですが、想像力や創造にとってはあまり役に立たないかもしれません。
納得するために、理解するために会話する、ことからちょっと離れてみる。連想の2つ先・3つ先の言葉を言ってみる。その言葉を初めて聴くのが自分です。自分の反応を見ると楽しい。
聾の庄﨑さんとどう「伝わって・繋がっているのか」もご本人の口からお聞きする機会も作りたい。現代詩人の知恵もみんなでお聞きしたい。俳優と言葉、無言劇、タンツテアター、ほら、聞きたいことは山ほどあり、応えてくれる最適な友人知人がいます。
すばらしいパスがきたら、それ以上のパスにして回す。ゴールするかどうかは気にしない気にしない。かまへんかまへん。
今日は、3月11日。昨年の今日、小林裕児さんを迎えたワークショップをやっていました。その前年はワークショップ第0回でした。さて?