携帯電話の新機能?とバッハ
長崎での夢のような1ヶ月を可能にしてくれたのは大自然、食材、水であり、治療(岩盤浴サウナ:温熱療法)、情でした。それに加えて、とても良かったのではないかなあ、と思われるのがインターネットを切っていたこと。アーシングも推奨され、裸足で地べたに毎日30分ほど立って体内に溜まった電磁を流しました。
帰ってきて、だんだんだんだんとネットに頼ってしまう生活に戻ってしまいました。ある日、携帯電話が壊れ、今の体調で街の携帯ショップへ行く気力もなく1ヶ月無しですごしました。たぶん、これと言う不便も、迷惑もなかったと思います。気持ちが楽である気がしました。このまま止めてしまおうと本気で思いましたが、今のような身体の状態だと、いつ何時何があるかわからないので、緊急時のためにあった方が良い、ということになり、エイっっっと気合いを入れて、機種変更をしてきました。
案の定、担当者の言いなりに情報を取られ、あれよあれよという間に新しいものになりました。
なんだか「得した顔をしなければならない」ようなオマケもたくさん付いています。
高価なので2年縛り(月賦)です。
そこで気がつきました。そうだ、2年は生きていなければならない!
嫌で嫌でしようが無かった機種変更の新機能が「生きる励み」。
(残り9年のパスポートはさすがに・・・)
さて、音楽の話。
残り何ができるか、「縁起でも無い」という話はストップ。プラクティカルに考えなくっちゃ。どんなに健康な人も必ず「みまかる」わけで。
病気で失った技術や身体能力はしかたない(というファイナルワードは使わず、逆にそこから新発見する)としてもバッハ無伴奏チェロ組曲のいくつかの録音を考え始めています。普通の状態でもコントラバス弾きとして最高難易度のものを、なにもこんな体調でやらなくてもと思うのが常識です。わかってます。わかっております。しかし、これが「私」でしょうか。締め切りがハッキリし、技術がなくなってくるとかえって挑戦したくなりました。
いろいろな理由があります。最大のもの。それは、友人達が作ってくれた「還暦記念リサイタル」(@ソノリウム)の最後の曲として、バッハの六番をやろうとして、事もあろうにホワイトアウトした事件がありました。きっちり暗譜してあるはずの音がすっ飛んで行ってしまいました。還暦となると、ずうずうしいもので、焦りもせずに、「飛んでしまいました」とだけ聴衆に言って、何も無かったごとく即興演奏に移行しました。
このことは私にとっていろいろな意味で画期でした。当時たいへん多忙で、国内外を飛び回っていて、事務も演奏もギチギチでしたが、なんとか切り抜けていて、それが無意識の自慢・満足だったようです。
その分、演奏は丁寧さを欠き、謙虚さを欠いていたことは今になればよく分かります。多くの多種の仕事を次々と進めていました。もちろん音楽的にも身体的にも良い訳がありません。
この記念すべき還暦コンサートにしても、多くの仕事の内の1つとして取り組んでいたのでしょう。その傲慢に対する「神」の叱責だったのでしょう。トリの曲にバッハの六番をやって「どうだ!」という意識もあったのでしょう。そして、私の多くの部分・楽歴・人生を作っているインプロビゼーションをプログラムにいれていませんでした。
それぞれの曲の中でのインプロビゼーションはあるのですが、完全即興がなかったのです。バッハに見放された後に、インプロビゼーションに移行して、「本来」の私を演奏した、という物語だったと解釈できます。この「インプロビゼーション以降がよかったよ」(アンコールまでやりました。)というまるで神さまの言葉を言ってくれるかたが複数いらっしゃいました。頭が下がりました。今ならひれ伏します。
還暦というのはよく言ったもので私のそれまでの音楽は1周して「終わって」いたのです。残ったカスカスの音楽の貯金を次々と消費するだけだった。考えれば私の膵癌は当時すでに充分育っていて、トリガーを待つばかりだったはずです。あぶないあぶない時期でした。うまく切り抜ける方法は果たしてあったのか?永遠の課題です。
次はバッハの六番から始めなければならないですね。毎日ギリギリの体力でやっています。(2番・5番を含めてこの3曲が、私のコントラバスのバッハになります。)面白い面白いし、難しい難しい。癌研の超優秀ドクター達によると「悪化が始まると早いよ。2〜3ヶ月かな」と言います。その時期を見誤らないように!その前にやっておかねば。
写真;前澤秀登@エアジン(ミロと私)